生稲晃子さんのプロフィール
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本名:佐山晃子(旧姓生稲)
生年月日:1968年4月28日 (51歳)
出身地:東京都小金井市
血液型:B型
身長:158 cm
活動:1986年 ~
ジャンル:女優・歌手
著名な家族:佐山智洋(夫)
所属事務所:プロダクション尾木
生年月日:1968年4月28日 (51歳)
出身地:東京都小金井市
血液型:B型
身長:158 cm
活動:1986年 ~
ジャンル:女優・歌手
著名な家族:佐山智洋(夫)
所属事務所:プロダクション尾木
生稲晃子さんの出身校
生稲晃子さんは東京都小金井市の出身で中学校は地元の小金井市立緑中学校を卒業し、高校は吉祥寺市にある私立吉祥女子高等学校 に進んでいます。
その後、恵泉女学園短期大学英文学科に進学して卒業しています。
高校は芸能活動禁止だったのにかかわらず、高校生の時には芸能事務所に入所してしまいます。学校から特別に芸能活動の許可が出された条件があり、「成績上位必須」「大学受験」という二つを言い渡されたようです。もともと生稲さんは成績がっとてもいいということもあっての許可だったようです。
その後、恵泉女学園短期大学英文学科に進学して卒業しています。
高校は芸能活動禁止だったのにかかわらず、高校生の時には芸能事務所に入所してしまいます。学校から特別に芸能活動の許可が出された条件があり、「成績上位必須」「大学受験」という二つを言い渡されたようです。もともと生稲さんは成績がっとてもいいということもあっての許可だったようです。
生稲晃子さんの芸能界に入るキカッケ
生稲晃子さんの芸能界に入るキッカケは、1984年『第9回ホリプロタレントスカウトキャラバン』への応募です。
結果は、3次審査で落選だったにもかかわらず、ホリプロ側の目に留まったのでしょう、ホリプロの系列のモデル事務所から声をかけられ芸能界に入ることとなります。
結果は、3次審査で落選だったにもかかわらず、ホリプロ側の目に留まったのでしょう、ホリプロの系列のモデル事務所から声をかけられ芸能界に入ることとなります。
大人気アイドルグループ「おニャン子クラブ」で大ブレイク
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おニャン子クラブ 会員番号40番
1986年6月、『夕やけニャンニャン』内オーディションコーナーを経て、1986年6月13日に、おニャン子クラブの会員番号40番としてデビューします。
中でも生稲さんは、ジャニーズの木村拓哉さんの奥さんで歌手の工藤静香さん(会員番号38番)、斉藤満喜子さん(会員番号42番)とおニャン子派生ユニット「うしろ髪ひかれ隊」を結成して人気となりました。
1986年6月、『夕やけニャンニャン』内オーディションコーナーを経て、1986年6月13日に、おニャン子クラブの会員番号40番としてデビューします。
中でも生稲さんは、ジャニーズの木村拓哉さんの奥さんで歌手の工藤静香さん(会員番号38番)、斉藤満喜子さん(会員番号42番)とおニャン子派生ユニット「うしろ髪ひかれ隊」を結成して人気となりました。
おニャン子解散後
おニャン子クラブが1987年解散になり、生稲晃子さんは、ソロデビューします。そしてその後も芸能界で女優、タレントとして活動していきます。
プライベートでは、2003年に結婚して、現在(2019年時点)小学生の娘さんが一人います。
アイドル卒業後の生稲さんは、演技力のある女優さんというイメージ、そしてコメンテーターとしても女性として、主婦として、しっかりしたか自信の考えを語られ、いつも雰囲気のやさしげな好感度も高い方と言う印象があります。
一時、テレビで見かけなくなった時期もあったように記憶していますが、実は人知れず、病気の治療をされていたという事です。その病気とは...。
プライベートでは、2003年に結婚して、現在(2019年時点)小学生の娘さんが一人います。
アイドル卒業後の生稲さんは、演技力のある女優さんというイメージ、そしてコメンテーターとしても女性として、主婦として、しっかりしたか自信の考えを語られ、いつも雰囲気のやさしげな好感度も高い方と言う印象があります。
一時、テレビで見かけなくなった時期もあったように記憶していますが、実は人知れず、病気の治療をされていたという事です。その病気とは...。
生稲晃子さん、乳ガンが見つかる
生稲晃子さんが乳ガンであると告知されたのが、2011年4月28日自身の誕生日のことだったそうです。でもその時、レギュラーで元気に散歩をしていく健康番組的な内容の番組をやっていたために公表せず、旦那さんと当時5歳の娘さんに伝えていただけだったと言います。
プライベートでは1児の母で主婦ですが、芸能界という特殊な世界にいるために自分だけではなく、周りのことをつい考えてしまうというのはあるかもしれませんね。
告知を受けた時の心境を「ショックだった」と語る生稲さん。誰もが「ガンです」と告知されたら、まず「死につながる」イメージがあるのではないでしょうか。生稲さんも同じように思ったそうです。
テレビで観る生稲晃子さんはいつも明るく笑顔のイメージがあります。それはガンになってからも変わりませんでした。
「辛いからこそ仕事も家庭も普段通りに…」とあるインタビューでもおしゃっています。
プライベートでは1児の母で主婦ですが、芸能界という特殊な世界にいるために自分だけではなく、周りのことをつい考えてしまうというのはあるかもしれませんね。
告知を受けた時の心境を「ショックだった」と語る生稲さん。誰もが「ガンです」と告知されたら、まず「死につながる」イメージがあるのではないでしょうか。生稲さんも同じように思ったそうです。
テレビで観る生稲晃子さんはいつも明るく笑顔のイメージがあります。それはガンになってからも変わりませんでした。
「辛いからこそ仕事も家庭も普段通りに…」とあるインタビューでもおしゃっています。
生稲晃子さんの乳ガン告知後の経緯
乳ガンを告知されてからの治療は次の様な経緯があります。
生稲さんの乳ガンは初期のステージ1で幸いにも腫瘍も8㎜と小さなものだったそうです。
乳ガンと告知された2011年4月、そして翌月5月に最初の手術をします。
この時は、乳房温存術でしこりとそのまわりの細胞を切除するものでした。
先生からは「小さくてもガンですよ」とその後の経過観察の大切さも伝えられる中、腫瘍が小さく、転移もなく取り除けたことで生稲さん自身は命が続くことにそれまでの不安がいくらか薄れたように感じていたようです。
女性にとって乳ガンと言われて、手術を受けるときに腫瘍だけ取り除くものでいいのか、乳房全摘出の選択を迫られるのか、命を考えつつも自分の体の一部が亡くなってしまう事への不安もでてくることでしょう。
生稲さんの乳ガンは初期のステージ1で幸いにも腫瘍も8㎜と小さなものだったそうです。
乳ガンと告知された2011年4月、そして翌月5月に最初の手術をします。
この時は、乳房温存術でしこりとそのまわりの細胞を切除するものでした。
先生からは「小さくてもガンですよ」とその後の経過観察の大切さも伝えられる中、腫瘍が小さく、転移もなく取り除けたことで生稲さん自身は命が続くことにそれまでの不安がいくらか薄れたように感じていたようです。
女性にとって乳ガンと言われて、手術を受けるときに腫瘍だけ取り除くものでいいのか、乳房全摘出の選択を迫られるのか、命を考えつつも自分の体の一部が亡くなってしまう事への不安もでてくることでしょう。
一度目の再発
2011年5月に最初の手術を受け、その後の治療も検診も受けている中で、右胸に赤い突起があり調べると悪性であることが分かり再発を伝えられます。
2012年9月に2度目の手術を受けます。この時の手術も乳房温存術になっていたようです。
ガンの再発と言われると、最初の初期の診断の時以上に精神面でも不安定になったことでしょう。
その言葉「再発」「転移」という言葉が、生稲さんの場合も、もしかすると最初の乳ガンの告知の時以上に重いものだったかもしれません。
二度目の再発
2011年5月最初の手術
2012年9月再発のため2度目の手術
その後も3ヶ月に一度、再発の有無の検査を受けて過ごしていた生稲さんですが、翌年2013年秋に二度目の再発を告げられます。
この時に医師から、右乳房の全摘出を勧められたと言います。それまでの腫瘍を取り除く手術とは違い、女性としてもつらい選択を迫られたという状況です。
ただこの時、医師に「命の優先」を促され、一人娘の母でもある生稲さんは、自分のためはもちろん、親として「生きる」ことに心底、前向きに考えられたと言います。
この時の心の葛藤は同じ立場になったものではないとわからないかもしれません。生稲さんも二度目の再発を言われてから手術する3ヶ月の間、こんなことも考えたと言います。
2012年9月再発のため2度目の手術
その後も3ヶ月に一度、再発の有無の検査を受けて過ごしていた生稲さんですが、翌年2013年秋に二度目の再発を告げられます。
この時に医師から、右乳房の全摘出を勧められたと言います。それまでの腫瘍を取り除く手術とは違い、女性としてもつらい選択を迫られたという状況です。
ただこの時、医師に「命の優先」を促され、一人娘の母でもある生稲さんは、自分のためはもちろん、親として「生きる」ことに心底、前向きに考えられたと言います。
この時の心の葛藤は同じ立場になったものではないとわからないかもしれません。生稲さんも二度目の再発を言われてから手術する3ヶ月の間、こんなことも考えたと言います。