金曜10時!うわさのチャンネル!!
和田アキ子とザ・デストロイヤー、せんだみつおの掛合いがナイスだった「アコのゴッド姉ちゃん」が斬新、他のコーナーも含めてかなり攻めていたバラエティ番組だったと思います。
「うわさのチャンネル」むすんでひらいて - YouTube
1974年、うわさのチャンネル。
「和田アキ子=ゴッド姉ちゃん」のイメージが定着した「アコのゴッド姉ちゃん」
「アコのゴッド姉ちゃん」
和田アキ子が、ガキ大将的存在の「ゴッド姉ちゃん」、せんだみつお、ザ・デストロイヤー(なぜかドイツ軍兵士のヘルメットを被っている)らが、仲間の悪ガキどもに扮したメインコーナー。
和田は連中をひたすらののしり、ハリセンでどつき倒したが、犬やヘビには弱く、せんだらがたまに犬をけしかけて逆襲したり、相撲のまわしをつけたザ・デストロイヤーがまわしからヘビのおもちゃを出して悲鳴を上げさせたりする場面もあった。
この番組への出演を機に、和田の「姉御肌」のキャラクターが定着した。
和田は連中をひたすらののしり、ハリセンでどつき倒したが、犬やヘビには弱く、せんだらがたまに犬をけしかけて逆襲したり、相撲のまわしをつけたザ・デストロイヤーがまわしからヘビのおもちゃを出して悲鳴を上げさせたりする場面もあった。
この番組への出演を機に、和田の「姉御肌」のキャラクターが定着した。
「浜ちゃんにどつかれると売れる」の前に「ザ・デストロイヤーに4の字固めをかけられると売れる」が存在した!
ゲストがザ・デストロイヤーに4の字固めをかけられて悶絶することがよくあったが、それがきっかけでブレイクしたタレントも多い。当時日本テレビアナウンサーの徳光和夫はそれまではスポーツ関係のアナウンサーという印象でしかなかったが、このコーナー出演をきっかけにバラエティへも進出し、後の「おもしろまじめ」で小林完吾と共演するきっかけにもなっている。
また、ガッツ石松がまだ現役のプロボクシング世界チャンピオンの時にこのコーナーに出演して、「ぼくさーボクサーなの」というギャグを発していた。
和田は、ゲストの女性タレントをだまして、卑猥な言葉を言わせたりもした。例えば『どんぐりころころ』の替え歌で「借金たまってさあ大変~」をリハーサルでは皆が歌ったのに、本番では「借」で皆が口をつぐんだので、ゲストの女性タレントだけが「キンタマ」と発声してしまった。また浅野ゆう子は『むすんでひらいて』の「またひらいて」の所で1人だけ大股を広げてしまった。
引用:wikipedia
また、ガッツ石松がまだ現役のプロボクシング世界チャンピオンの時にこのコーナーに出演して、「ぼくさーボクサーなの」というギャグを発していた。
和田は、ゲストの女性タレントをだまして、卑猥な言葉を言わせたりもした。例えば『どんぐりころころ』の替え歌で「借金たまってさあ大変~」をリハーサルでは皆が歌ったのに、本番では「借」で皆が口をつぐんだので、ゲストの女性タレントだけが「キンタマ」と発声してしまった。また浅野ゆう子は『むすんでひらいて』の「またひらいて」の所で1人だけ大股を広げてしまった。
引用:wikipedia
和田アキ子 西城秀樹 徳光和夫 四の字固め - YouTube
「アコのゴッド姉ちゃん」が人気を博しました。
まだサングラス姿のなる前のタモリが担当した「タモリのなんでも講座」
サングラスでなくアイパッチを着用していたころのタモリ
サングラスではなくアイパッチを着用していた頃のタモリが、毎回怪しげな芸をふんだんに披露していたコーナー。
4ヶ国語麻雀、中洲産業大学のタモリ教授(もともとはオールナイトニッポンの企画)、タモリ神父、イグアナの物真似などがレパートリーにあった。
引用:wikipedia
4ヶ国語麻雀、中洲産業大学のタモリ教授(もともとはオールナイトニッポンの企画)、タモリ神父、イグアナの物真似などがレパートリーにあった。
引用:wikipedia
山城新伍の「三日月刑事・暁にほえろのコーナー」
警察の取調室のコント。
山城新伍扮する三日月刑事が、毎回謎の容疑者役であるせんだみつお(謎の中国人・萬 江仙、自称コウダ氏など)を取り調べて、痴漢満五郎という名の正体を暴くコーナー。
山城新伍扮する三日月刑事が、毎回謎の容疑者役であるせんだみつお(謎の中国人・萬 江仙、自称コウダ氏など)を取り調べて、痴漢満五郎という名の正体を暴くコーナー。
せんだみつおが担当した、視聴者が電話で参加するおいちょかぶコーナー「ダイヤモンドチャレンジ」
視聴者が電話で参加するおいちょかぶ。コーナー担当はせんだみつお。
上段に表になっているトランプ札が5枚、さらに中段には裏になっている札が5枚あった。
せんだは5人の参加者に1人ずつ「いりませんか?」と問い掛け、「いります」と相手が言ったら3枚目を出し、「いりません」と言ったらそのまま。そして、せんだの「とんがれ、とんがれ、とんがれェーッ」の声で裏向きの札をオープンし、点数を出していった。
点数の1桁目が「9」か「9」に近い者が優勝となり、ダイヤモンドの指輪を獲得できた。
上段に表になっているトランプ札が5枚、さらに中段には裏になっている札が5枚あった。
せんだは5人の参加者に1人ずつ「いりませんか?」と問い掛け、「いります」と相手が言ったら3枚目を出し、「いりません」と言ったらそのまま。そして、せんだの「とんがれ、とんがれ、とんがれェーッ」の声で裏向きの札をオープンし、点数を出していった。
点数の1桁目が「9」か「9」に近い者が優勝となり、ダイヤモンドの指輪を獲得できた。
「ザ・ニュースコミック!」
末期において徳光和夫が担当していたニュース風のコントコーナー。徳光はその後、1979年3月から『ズームイン!!朝!』を担当することになったため、小山田春樹(当時日本テレビアナウンサー)と交代した。
小山田は毎週、「以上で、デタラメニュースを終わります」と言ってコーナーを終わらせた。
小山田は毎週、「以上で、デタラメニュースを終わります」と言ってコーナーを終わらせた。
「金曜10時!うわさのチャンネル!!」出演者
錚々たるメンバーが出演していたんです。
【レギュラー】
・和田アキ子(開始当初のメイン格。1978年3月まで)
・せんだみつお(開始〜1978年12月まで)
・ザ・デストロイヤー(プロレスラー、開始〜1978年まで)
・湯原昌幸(開始〜1977年3月まで)
・あのねのね(清水國明・原田伸郎・笑福亭鶴瓶、開始〜1976年9月まで)
・山城新伍(1977年4月〜終了まで)
・千昌夫(1978年4月より和田の後継メイン格として番組終了まで出演)
・タモリ(1976年10月〜終了まで)
・所ジョージ(1978年〜終了まで)
・マギー・ミネンコ(開始〜1975年まで)
・シェリー(1975年〜1977年まで)
・木ノ葉のこ(1977年〜終了まで)
・五月みどり(1976年頃に出演)
・ラビット関根
・魁三太郎
・ずうとるび
・伊藤一葉
・チャダ
・スッパヌキ仮面
・ダレ犬(マスコット犬)
【準レギュラー】
・徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー)
・小山田春樹(当時日本テレビアナウンサー)
・ガッツ石松(当時プロボクサー)
ほか
【レギュラー】
・和田アキ子(開始当初のメイン格。1978年3月まで)
・せんだみつお(開始〜1978年12月まで)
・ザ・デストロイヤー(プロレスラー、開始〜1978年まで)
・湯原昌幸(開始〜1977年3月まで)
・あのねのね(清水國明・原田伸郎・笑福亭鶴瓶、開始〜1976年9月まで)
・山城新伍(1977年4月〜終了まで)
・千昌夫(1978年4月より和田の後継メイン格として番組終了まで出演)
・タモリ(1976年10月〜終了まで)
・所ジョージ(1978年〜終了まで)
・マギー・ミネンコ(開始〜1975年まで)
・シェリー(1975年〜1977年まで)
・木ノ葉のこ(1977年〜終了まで)
・五月みどり(1976年頃に出演)
・ラビット関根
・魁三太郎
・ずうとるび
・伊藤一葉
・チャダ
・スッパヌキ仮面
・ダレ犬(マスコット犬)
【準レギュラー】
・徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー)
・小山田春樹(当時日本テレビアナウンサー)
・ガッツ石松(当時プロボクサー)
ほか
「和田アキ子=ゴッド姉ちゃん」が強すぎてしまった!
全盛期にはなんと視聴率30%を超える人気番組に!
初回(1973年10月5日放送分)の視聴率は4.7%だったが、和田とザ・デストロイヤー、せんだみつおらの掛け合いが人気となり、1か月も経つと20%を突破。
全盛期には視聴率30%を超える人気番組となったが、和田がゴッド姉ちゃんのイメージが定着してしまったのを嫌ったことや、歌手に専念したいとの意向で日本テレビへ強引に降板を申し入れたことから1978年春で降板(この一件が原因で、以後2年間和田は日本テレビへの出入りが禁止されるなど両者は折り合いが悪くなった(後に和解し、『歌のトップテン』や『ミンナのテレビ』などに出演した)。
和田と並ぶ番組の顔であったせんだも同年末で病気療養による長期芸能活動停止に伴い番組を降板。和田とせんだが番組を去った後は、千昌夫を中心に、和田メインの頃からのレギュラーであるタモリ・所ジョージ・木の葉のこが千のサポートに回るような形で放送を続けたものの、この頃より番組の人気が急激に低迷。1979年秋の改編を待たずに打切りとなった。
本番組は、同局の人気オーディション番組『スター誕生!』の出身歌手たちをサポートする役割も果たしていた。また、ほとんどの期間においてはモノラル放送だったが、1978年10月から最終回まではステレオ放送で行われていた。
引用:wikipedia
全盛期には視聴率30%を超える人気番組となったが、和田がゴッド姉ちゃんのイメージが定着してしまったのを嫌ったことや、歌手に専念したいとの意向で日本テレビへ強引に降板を申し入れたことから1978年春で降板(この一件が原因で、以後2年間和田は日本テレビへの出入りが禁止されるなど両者は折り合いが悪くなった(後に和解し、『歌のトップテン』や『ミンナのテレビ』などに出演した)。
和田と並ぶ番組の顔であったせんだも同年末で病気療養による長期芸能活動停止に伴い番組を降板。和田とせんだが番組を去った後は、千昌夫を中心に、和田メインの頃からのレギュラーであるタモリ・所ジョージ・木の葉のこが千のサポートに回るような形で放送を続けたものの、この頃より番組の人気が急激に低迷。1979年秋の改編を待たずに打切りとなった。
本番組は、同局の人気オーディション番組『スター誕生!』の出身歌手たちをサポートする役割も果たしていた。また、ほとんどの期間においてはモノラル放送だったが、1978年10月から最終回まではステレオ放送で行われていた。
引用:wikipedia
1973年10月5日~1979年6月29日、毎週金曜 22:00 - 22:54の生放送でした。