2019年6月11日 更新
80年代後半~90年代前半に「マドンナ旋風」を巻き起こした土井たか子の人生
皆さんは「土井たか子」という人物を覚えていますでしょうか?主に日本社会党で活躍した政治家で、80年代後半からは「おたかさんブーム(マドンナ旋風などとも呼ばれる)」を巻き起こし、社会党の躍進の立役者となりました。
80年代後半に「マドンナ旋風」を巻き起こした土井たか子!
皆さんは「土井たか子」という人物を覚えていますでしょうか?主に日本社会党で活躍した政治家で、80年代後半からは「おたかさんブーム(マドンナ旋風などとも呼ばれる)」を巻き起こし、社会党の躍進の立役者となりました。この記事では、土井たか子の功績に加え、1990年前後の国政選挙についても書いてみたいと思います。
1969年、社会党から出馬した衆院選で初当選。
土井たか子は1928年、兵庫県神戸市生まれ。1945年に旧制京都女子専門学校を卒業後、同志社大学で憲法学者・田畑忍の講演「平和主義と憲法九条」に感銘を受け、田畑の指導を受けるために同志社大学に編入、その後、同大学の大学院修士課程を修了しました。その後は憲法学の講師として、同志社大学や関西学院大学などで教鞭を取っていたのですが、政界から声がかかったため、1969年の第32回衆議院議員総選挙に日本社会党から出馬、初当選を果たしました。
当選後、衆議院議員となった土井は女性への性差別に関する活動を活発化、男女の雇用差別といった当時の社会問題に切り込んでいきました。そして社会党の中で頭角を現し、1983年に社会党の副委員長に就任します。
1986年、社会党の委員長に就任!
1986年、中曽根康弘が仕掛けた「死んだふり解散」による衆参同日選挙で社会党が大敗したのを受け、土井は第10代社会党委員長に就任。憲政史上初の女性党首となりました。委員長となった土井ですが、そのはっきりとした物言いのキャラが国民に受け、社会党のイメージ刷新に貢献。「おたかさん」として、お茶の間の人気者となっていきます。
自民党政権と真っ向から対決!!
委員長となった土井は、お茶の間の支持を背景に当時の自民党政権と激しく対立。1987年の中曽根内閣時には「売上税法案」を巡り社公民路線(社会党・公明党・民社党)及び社民連とも協力し同法案を廃案に追い込み、竹下内閣では消費税導入とリクルート事件を追求し、竹下内閣を退陣へと追い込みました。
1989年の参院選で社会党が躍進!!
社会党が勢いを増す一方で、自民党が防戦に追い込まれる中行われた1989年の第15回参議院議員選挙では、土井は4点セット(消費税問題・リクルート問題・宇野首相の女性問題・オレンジ自由化の問題)を武器に自民党に攻勢を仕掛け、自民党の獲得議席が36議席に留まる中、社会党は46議席を獲得。宇野首相を退陣へと追い込みました。この際、土井は「山が動いた」と発言し、お茶の間での「おたかさんブーム」は最高潮に達しました。
前述の「おたかさんブーム」は1990年の衆議院議員総選挙でも維持され、社会党は躍進。「もう1つの山を動かさなければならない」を旗印に、51議席増の136議席を獲得したものの、一方の自民党も275議席(安定多数)を確保したため、他の野党との議席を合わせても政権交代には至りませんでした。
1991年の統一地方選で敗北、以後退潮傾向に。
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