喫茶店・カフェの歴史
2015年12月7日 更新

喫茶店・カフェの歴史

戦前・戦後の喫茶店から現代の喫茶店・カフェまで、その文化と歴史を振り返ってみましょう。コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場といった意味合いを持った喫茶店、サービス形態が多様化していく喫茶店、喫茶店・カフェの歴史を通じて、当時の空気感が伝わってきます。

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喫茶店・カフェの歴史

喫茶店・カフェの歴史

喫茶店・カフェの歴史

喫茶店(きっさてん)とは、コーヒーや紅茶などの飲み物、菓子・果物・軽食を客に供する飲食店のこと。
コーヒーや紅茶などの飲み物を提供したり、菓子(ケーキ、茶菓 等)や、フルーツを用いた甘味や、サンドイッチ等の軽食を提供する飲食店である。

「喫茶(きっさ)」とは、もともとは鎌倉時代(源実朝の時代)に中国から伝わった茶を飲用し効用を嗜む習慣や作法をさす言葉であった。

しかし現在では(緑の)茶に限らず、紅茶、コーヒーも含めて「喫茶」と言い、さらには果汁や清涼飲料水なども含めて、これらを飲み菓子を食べることも「喫茶」の概念に含めることが多い。

喫茶店は、俗に略して「茶店」(さてん)とも呼ばれる。近年の口語では「お茶する」などともいう。

日本では、フランスのカフェを意識した店舗などを中心に「カフェ」と呼ばれることも多い。和風の表現にこだわる時は茶房(さぼう)、茶寮(さりょう)としている例もある。
(出典:Wikipedia「喫茶店」)

コーヒーの伝来「日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代、徳川綱吉の頃」「18世紀に長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれている。」

日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長...

日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長崎の出島においてオランダ人に振舞われたのが最初であると考えられている。

黒船来航と共に西洋文化が流入し長崎、函館、横浜などの開港地を中心として西洋料理店が開店するようになり、そのメニューの一部としてコーヒーが一般庶民の目に触れるようになった。
(出典:Wikipedia「日本における喫茶店の歴史」)

日本には18世紀に長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれている。出島に出入りしていた一部の日本人がコーヒーを飲用していたと考えられ、出島に出入りすることが許されていた丸山遊郭の遊女の中にはオランダ人からコーヒーを贈られた者もいた。

コーヒーについて言及された日本最古の本の1つと考えられている志筑忠雄の『万国管窺』にはわずかながらも記述が存在し、天明年間(1781年 - 1788年)に日本語に訳された『紅毛本草』には「古闘比以」という名でコーヒーの詳細な説明がされている。

江戸幕府が敷いていた鎖国政策のため民衆にコーヒーが行き渡らず、また風味が日本人の嗜好に合わなかったため、伝来から普及までに長い時間を要した。

1804年にコーヒーを飲んだ大田南畝(大田蜀山人)は、「焦げくさくして味ふるに堪ず」という感想を残した。ヨーロッパ文化に関心を抱く蘭学者や医家はコーヒーを飲んだ感想を記し、大黒屋光太夫などの国外に漂流した者も漂着先でコーヒーを飲用した。
(出典:Wikipedia「コーヒーの歴史」)

戦前の喫茶店

1888年(明治21年)に開店した日本最初の喫茶店「可...

1888年(明治21年)に開店した日本最初の喫茶店「可否茶館」の跡地

現代に見られるような本格的な喫茶店としての形態を初めて持ったのは1888年(明治21年)に開店した「可否茶館」である。

勤めていた外務省を辞めた鄭永慶が、現在の台東区上野に開店した可否茶館は現代の複合喫茶の様相でトランプやビリヤードなどの娯楽品、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワー室などが備えられていた。鄭は「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」として広めようとしたが経営は振るわず1892年(明治25年)にその幕を下ろし、鄭はアメリカ合衆国に去った。

それからしばらく経った1911年(明治44年)、画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして4月に開店した「カフェー・プランタン」をはじめ、水野龍の「カフェー・パウリスタ」、築地精養軒の「カフェー・ライオン」など銀座にカフェーと称する店が相次いで誕生する。

それぞれの店は独自色を打ち出し、カフェー・プランタンは「初の会員制カフェ」として、カフェー・パウリスタは「初の庶民喫茶店」「初のチェーン店舗型喫茶店」として、カフェー・ライオンは「初のメイド喫茶」として人気を博した。また、この頃、暖めた牛乳を提供する「ミルクホール」も登場し、学生などに人気を博した。

1911年3月「カフェー・プランタン」銀座に開業。「日本初のカフェ」とされる

1911年3月「カフェー・プランタン」銀座に開業。「日...

1911年3月「カフェー・プランタン」銀座に開業。「日本初のカフェ」とされる

カフェー・プランタン(フランス語: Café Printemps)は、かつて存在した日本の飲食店である。1911年(明治44年)、銀座に開業し、「日本初のカフェ」とされる。

東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)出身の松山省三が、美術学校時代の恩師・黒田清輝らに聞かされたパリのカフェーのような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、1911年3月、友人の平岡権八郎とともに開業した。

位置は東京府京橋区日吉町20番地(現東京都中央区銀座8丁目6番24号、銀座会館付近)で銀座煉瓦街の一角、周囲は新橋の花街で芸妓屋や待合が多かった。美術学校関係者の協力を得て煉瓦の建物を改装し、相談役の小山内薫が「プランタン」(フランス語で春の意)と命名した。その後まもなく、平岡は経営から離れた。

これ以前にも、1906年(明治39年)に開店した台湾喫茶店(ウーロン)やビヤホール、(メイゾン鴻ノ巣などの)西洋料理店と、類似の店は存在していたが、プランタンの登場によって、洋行帰りの人たちが口にしていたような意味での(サロン形式の店としての)「カフェーが初めて日本にも生れた」と評判を呼んだ。1911年にはプランタンに続き、ライオン(8月)、パウリスタ(12月)と「カフェー」を冠する店が銀座に相次いで開店した。(ライオンは精養軒の経営で料理中心、パウリスタはコーヒー中心と、店により特徴があった)

プランタンでは珈琲と洋酒を揃え、料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューを出した。後に焼きサンドイッチも名物になった。

素人が始めた店であり不安もあったため、当初は会費50銭で維持会員を募り、2階の部屋を会員専用にしていた。会員には洋画家の黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月、歌舞伎役者の市川左團次ら当時の文化人が多数名を連ねた。

もっとも、会員制は半年ほどで自然消滅した。経営は苦しかったが、新聞記者の松崎天民が皮肉って「貨幣不足党」(カフェータランタラン)と書き、これも一つの宣伝になった。

常連の客が店の白い壁に似顔絵や詩などを落書きし、これが店の名物になっていた。永井荷風が当時入れあげていた新橋芸妓・八重次と通ったのもこの店で、荷風の『断腸亭日乗』にもしばしば名前が登場する。

フランスのカフェにはいない「女給仕」(ウェイトレス)が人気を博したが、カフェー・ライオンなどに比べ、カフェー・プランタンは文学者や芸術家らの集まる店であり、普通の人には入りにくい店であったという。

ただし、関東大震災前の頃にはプランタンの常連客も入れ替わり、客層も相当変わっていたという。
昭和始め頃に「カフェー」と言えば、もっぱら女給の接待を「売り」にする「風俗営業」(今日のキャバクラあたりに相当)となってしまうが、それまでのカフェーはレストラン、バー、喫茶店を兼ねるような存在であり、必ずしも風俗営業で一括りにすることはできない。

1920年、有楽座に出張店を出し、名物の焼きサンドイッチを看板にしたという。
(出典:Wikipedia「カフェー・プランタン」)
画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイ...

画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして開店した「カフェー・プランタン」は文学者や芸術家らの集まる店であり、普通の人には入りにくい店であったという。

1911年8月「カフェー・ライオン」

銀座尾張町角に「日本初のメイド喫茶」の「カフェー・ライ...

銀座尾張町角に「日本初のメイド喫茶」の「カフェー・ライオン」(築地精養軒経営)開店

カフェー・ライオン(Café Lion)は、かつて存在した日本の飲食店である。カフェー・プランタンと同じ1911年(明治44年)に開業し、銀座を代表するカフェーと言われた。

尾張町交差点の角(以前、毎日新聞社があった場所、現在のサッポロ銀座ビル)に開業した。3階建で新築され、1階が酒場、2階が余興場であった。

1911年は「日本初のカフェ」とされるプランタン(3月)に続き、ライオン(8月)、パウリスタ(12月)と「カフェー」を冠する店が銀座に相次いで開店した年である。パウリスタはコーヒー中心だったが、ライオンは料理、酒が中心だった。

築地精養軒の経営であり、規模が大きく、一般客にも入りやすかったという。美人女給が揃いの衣裳(和服にエプロン)でサービスすることで知られたが、当時は女給が客席に同席することはなかった。

ビールが一定量売れると、ライオン像が吠える仕掛けになっていた。また、グランドホテル(横浜)出身の名バーテンダー・浜田晶吾がおり、「ライオンの宝」とも評された。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後はバラックの平屋建で営業を再開、後に本建築に建て替えた。
1924年、斜向かいにカフェー・タイガーが開業し、目立つ女給が引き抜かれるなどして、次第に勢いを失った。松崎天民には「女給の美的素質の上から言えば、第二三流」、「どれもこれもが、所帯染みている」と酷評され、また、タイガーなどに倣い、女給が客席に同席するようにもなった。

1931年(昭和6年)6月、大日本麦酒に経営が移り、8月にビヤホール(ライオンヱビスビヤホール、現在のビヤホールライオン銀座五丁目店)としてオープンした。
(出典:Wikipedia「カフェー・ライオン」)
カフェー・ライオンの女給さんは、 品行が良いことで評判...

カフェー・ライオンの女給さんは、 品行が良いことで評判でした。

出典:ほぼ日刊イトイ新聞 - 江戸が知りたい。東京ってなんだ?!テーマ3 「カフェーは明治の昔から」
https://www.1101.com/edo/2003-10-01.html

洋酒や洋食をメニューの中心として供したカフェー・ライオンの特筆すべき点は、女性給仕(ウェイトレス)のサービスにあった。和服にエプロンを纏った若い女給が客の話相手となったこの店は、いわゆるカフェーを代表する存在である。後年の美人喫茶やメイドカフェの嚆矢となったという見方もある。
(出典:Wikipedia「日本における喫茶店の歴史」)

1911年(明治44年) カフェーパウリスタが銀座に開業

カフェーパウリスタ

カフェーパウリスタ

カフェーパウリスタ(CAFE PAULISTA)は日本の喫茶店である。1911年(明治44年)、銀座に開業。各地に店舗を広げ、親しまれたが、1923年(大正12年)関東大震災の被災後に喫茶店経営から撤退。1970年に復活した銀座店は、昔のカップ、スプーンを復元するなどで「日本初のカフェ」を自認している。「パウリスタ」は「サンパウロっ子」の意味。

皇国殖民株式会社の社長であった水野龍は、ブラジルへの日本人移送の見返りおよびブラジルコーヒーの宣伝普及のため、ブラジルのサンパウロ州政府より3年間1,000俵のコーヒー豆(ブラジル種)の無償提供を受けられることとなった。

これを元に1910年(明治43年)、大隈重信に協力を仰ぎ合資会社カフェーパウリスタを設立し、翌1911年12月、「南米ブラジル国サンパウロ州政府専属珈琲販売所」と銘打ち、京橋区南鍋町(銀座6丁目)に「カフェーパウリスタ」を開業した。サンパウロ州政府からのコーヒー豆の無償提供は実際には12年間続いた。

1911年は3月にプランタン、8月にライオンと「カフェー」を冠する店が相次いでオープンした年である。プランタン、ライオンは洋酒や洋食も売り物で、女給仕を置いていたが、パウリスタはコーヒー中心、店員は少年であった。

1杯5銭のコーヒーを提供する庶民的な店舗として人気を博し、「誰もが気軽に親しむことが出来る喫茶店の元祖」と言われる。

芥川龍之介や平塚らいてうなどの文化人のほか、学生(特に慶応義塾の学生)や社会人などが出入りした。カフェーパウリスタは東京市内を始め、名古屋、神戸、横須賀など各地に店舗を展開し、ブラジルコーヒーを広めた。

1923年(大正12年)の関東大震災でほとんどの店舗が全壊する大きな被害を受けたこと、およびブラジル政府からのコーヒー豆の無償提供の契約期限が同年で切れたことにより店舗経営から撤退し、事業規模を縮小してコーヒーの輸入・焙煎業を主としてうようになった。戦時下の昭和18年には当局の指示により横文字の社名を日東珈琲株式会社に名称変更した。

1969年(昭和44年)、子会社として株式会社カフェーパウリスタを新たに設立し、1970年(昭和45年)、銀座8丁目に直営宣伝店「カフェーパウリスタ」をオープンした。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコが来日時に通ったという銀座店(銀座8丁目)は、1970年に再開したものである。
(出典:Wikipedia「カフェーパウリスタ」)

関東大震災(1923年)の翌1924年(大正13年) 「カフェー・タイガー」はカフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業した

「カフェー・タイガー」は「美しい女給と濃厚なサービス」...

「カフェー・タイガー」は「美しい女給と濃厚なサービス」が売り物

カフェー・タイガー(Café Tiger)は、かつて存在した日本の飲食店である。関東大震災後、銀座に開業し、カフェー・ライオンに対抗して勢力を伸ばした。

関東大震災(1923年)の翌1924年(大正13年)、カフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業した。「ライオン」と「タイガー」の競争ということでも話題を呼び、当時のヒット曲「当世銀座節」(西條八十作詞、中山晋平作曲、1928年)に"虎と獅子"と唄われた。

浅草のオリエントと同系列(浅野総一郎家の経営)で、オリエントから大勢の女給が移ってきたという。女給は16、7歳から25、6歳まで、30人近くがいた。

「美しい女給と濃厚なサービス」が売り物で、酒、料理は二の次だった。ライオンでは女給の監督が厳しく、少し品行が悪いとクビになったが、こうした女給をタイガーが引き取った。その結果、目立つ女性は皆タイガーに移ってしまった。

もっとも、関西から「エログロ好み」のカフェーが多数進出してきたため、タイガーのサービスもおとなしく感じられるようになったという。

後に、浅野家から本郷バーに経営が移った。警視庁がカフェー取締りを強化する中、1935年(昭和10年)に閉店した。

永井荷風、菊池寛、中村武羅夫、三上於菟吉らの作家がタイガーをひいきにした。広津和郎の小説『女給』で話題になった菊池寛のカフェー通いはこの店が舞台であった。

永井荷風は1926-27年にかけてタイガーの女給「お久」と馴染んだが、やがて500円の金を要求され、閉口させられた。後日、無頼漢の情夫がおり、度々ゆすりを働いていたことを聞き、日記に「黙阿弥劇の白浪物を見るが如し」と感想を記した。その後もタイガー通いは続き、カフェーを舞台にした小説『つゆのあとさき』を書いた(1931年5月脱稿、同年10月号の「中央公論」に発表)。
(出典:Wikipedia「カフェー・タイガー」)
カフェ・タイガーは三十名ほどの美人女給を赤・青・紫の三組に分け、日替わりで1、2階をローテーションしたそうです。まるで AKB48みたいなシステムですねー

それだけじゃない! ビール一本ごとに付く「投票券」で お気に入りの女給に人気投票ができたんです。これもAKBの「総選挙」と同じですね(こちらの投票券はCDですが)。

ちなみに ビールを150本買って お気に入りを一位にしたのは菊池寛。飲みきれない分は お持ち帰りしたそうですよ。
当時の女子の職業斡旋屋

当時の女子の職業斡旋屋

女中さん、カフェー、待合旅館などの求人

1920年代 - 日本で喫茶店ブーム。当時コーヒー一杯10銭。

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