2015年12月7日 更新

喫茶店・カフェの歴史

戦前・戦後の喫茶店から現代の喫茶店・カフェまで、その文化と歴史を振り返ってみましょう。コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場といった意味合いを持った喫茶店、サービス形態が多様化していく喫茶店、喫茶店・カフェの歴史を通じて、当時の空気感が伝わってきます。

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喫茶店・カフェの歴史

喫茶店・カフェの歴史

喫茶店・カフェの歴史

喫茶店(きっさてん)とは、コーヒーや紅茶などの飲み物、菓子・果物・軽食を客に供する飲食店のこと。
コーヒーや紅茶などの飲み物を提供したり、菓子(ケーキ、茶菓 等)や、フルーツを用いた甘味や、サンドイッチ等の軽食を提供する飲食店である。

「喫茶(きっさ)」とは、もともとは鎌倉時代(源実朝の時代)に中国から伝わった茶を飲用し効用を嗜む習慣や作法をさす言葉であった。

しかし現在では(緑の)茶に限らず、紅茶、コーヒーも含めて「喫茶」と言い、さらには果汁や清涼飲料水なども含めて、これらを飲み菓子を食べることも「喫茶」の概念に含めることが多い。

喫茶店は、俗に略して「茶店」(さてん)とも呼ばれる。近年の口語では「お茶する」などともいう。

日本では、フランスのカフェを意識した店舗などを中心に「カフェ」と呼ばれることも多い。和風の表現にこだわる時は茶房(さぼう)、茶寮(さりょう)としている例もある。
(出典:Wikipedia「喫茶店」)

コーヒーの伝来「日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代、徳川綱吉の頃」「18世紀に長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれている。」

日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長...

日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長崎の出島においてオランダ人に振舞われたのが最初であると考えられている。

黒船来航と共に西洋文化が流入し長崎、函館、横浜などの開港地を中心として西洋料理店が開店するようになり、そのメニューの一部としてコーヒーが一般庶民の目に触れるようになった。
(出典:Wikipedia「日本における喫茶店の歴史」)

日本には18世紀に長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれている。出島に出入りしていた一部の日本人がコーヒーを飲用していたと考えられ、出島に出入りすることが許されていた丸山遊郭の遊女の中にはオランダ人からコーヒーを贈られた者もいた。

コーヒーについて言及された日本最古の本の1つと考えられている志筑忠雄の『万国管窺』にはわずかながらも記述が存在し、天明年間(1781年 - 1788年)に日本語に訳された『紅毛本草』には「古闘比以」という名でコーヒーの詳細な説明がされている。

江戸幕府が敷いていた鎖国政策のため民衆にコーヒーが行き渡らず、また風味が日本人の嗜好に合わなかったため、伝来から普及までに長い時間を要した。

1804年にコーヒーを飲んだ大田南畝(大田蜀山人)は、「焦げくさくして味ふるに堪ず」という感想を残した。ヨーロッパ文化に関心を抱く蘭学者や医家はコーヒーを飲んだ感想を記し、大黒屋光太夫などの国外に漂流した者も漂着先でコーヒーを飲用した。
(出典:Wikipedia「コーヒーの歴史」)

戦前の喫茶店

1888年(明治21年)に開店した日本最初の喫茶店「可...

1888年(明治21年)に開店した日本最初の喫茶店「可否茶館」の跡地

現代に見られるような本格的な喫茶店としての形態を初めて持ったのは1888年(明治21年)に開店した「可否茶館」である。

勤めていた外務省を辞めた鄭永慶が、現在の台東区上野に開店した可否茶館は現代の複合喫茶の様相でトランプやビリヤードなどの娯楽品、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワー室などが備えられていた。鄭は「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」として広めようとしたが経営は振るわず1892年(明治25年)にその幕を下ろし、鄭はアメリカ合衆国に去った。

それからしばらく経った1911年(明治44年)、画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして4月に開店した「カフェー・プランタン」をはじめ、水野龍の「カフェー・パウリスタ」、築地精養軒の「カフェー・ライオン」など銀座にカフェーと称する店が相次いで誕生する。

それぞれの店は独自色を打ち出し、カフェー・プランタンは「初の会員制カフェ」として、カフェー・パウリスタは「初の庶民喫茶店」「初のチェーン店舗型喫茶店」として、カフェー・ライオンは「初のメイド喫茶」として人気を博した。また、この頃、暖めた牛乳を提供する「ミルクホール」も登場し、学生などに人気を博した。

1911年3月「カフェー・プランタン」銀座に開業。「日本初のカフェ」とされる

1911年3月「カフェー・プランタン」銀座に開業。「日...

1911年3月「カフェー・プランタン」銀座に開業。「日本初のカフェ」とされる

カフェー・プランタン(フランス語: Café Printemps)は、かつて存在した日本の飲食店である。1911年(明治44年)、銀座に開業し、「日本初のカフェ」とされる。

東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)出身の松山省三が、美術学校時代の恩師・黒田清輝らに聞かされたパリのカフェーのような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、1911年3月、友人の平岡権八郎とともに開業した。

位置は東京府京橋区日吉町20番地(現東京都中央区銀座8丁目6番24号、銀座会館付近)で銀座煉瓦街の一角、周囲は新橋の花街で芸妓屋や待合が多かった。美術学校関係者の協力を得て煉瓦の建物を改装し、相談役の小山内薫が「プランタン」(フランス語で春の意)と命名した。その後まもなく、平岡は経営から離れた。

これ以前にも、1906年(明治39年)に開店した台湾喫茶店(ウーロン)やビヤホール、(メイゾン鴻ノ巣などの)西洋料理店と、類似の店は存在していたが、プランタンの登場によって、洋行帰りの人たちが口にしていたような意味での(サロン形式の店としての)「カフェーが初めて日本にも生れた」と評判を呼んだ。1911年にはプランタンに続き、ライオン(8月)、パウリスタ(12月)と「カフェー」を冠する店が銀座に相次いで開店した。(ライオンは精養軒の経営で料理中心、パウリスタはコーヒー中心と、店により特徴があった)

プランタンでは珈琲と洋酒を揃え、料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューを出した。後に焼きサンドイッチも名物になった。

素人が始めた店であり不安もあったため、当初は会費50銭で維持会員を募り、2階の部屋を会員専用にしていた。会員には洋画家の黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月、歌舞伎役者の市川左團次ら当時の文化人が多数名を連ねた。

もっとも、会員制は半年ほどで自然消滅した。経営は苦しかったが、新聞記者の松崎天民が皮肉って「貨幣不足党」(カフェータランタラン)と書き、これも一つの宣伝になった。

常連の客が店の白い壁に似顔絵や詩などを落書きし、これが店の名物になっていた。永井荷風が当時入れあげていた新橋芸妓・八重次と通ったのもこの店で、荷風の『断腸亭日乗』にもしばしば名前が登場する。

フランスのカフェにはいない「女給仕」(ウェイトレス)が人気を博したが、カフェー・ライオンなどに比べ、カフェー・プランタンは文学者や芸術家らの集まる店であり、普通の人には入りにくい店であったという。

ただし、関東大震災前の頃にはプランタンの常連客も入れ替わり、客層も相当変わっていたという。
昭和始め頃に「カフェー」と言えば、もっぱら女給の接待を「売り」にする「風俗営業」(今日のキャバクラあたりに相当)となってしまうが、それまでのカフェーはレストラン、バー、喫茶店を兼ねるような存在であり、必ずしも風俗営業で一括りにすることはできない。

1920年、有楽座に出張店を出し、名物の焼きサンドイッチを看板にしたという。
(出典:Wikipedia「カフェー・プランタン」)
画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイ...

画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして開店した「カフェー・プランタン」は文学者や芸術家らの集まる店であり、普通の人には入りにくい店であったという。

1911年8月「カフェー・ライオン」

銀座尾張町角に「日本初のメイド喫茶」の「カフェー・ライ...

銀座尾張町角に「日本初のメイド喫茶」の「カフェー・ライオン」(築地精養軒経営)開店

カフェー・ライオン(Café Lion)は、かつて存在した日本の飲食店である。カフェー・プランタンと同じ1911年(明治44年)に開業し、銀座を代表するカフェーと言われた。

尾張町交差点の角(以前、毎日新聞社があった場所、現在のサッポロ銀座ビル)に開業した。3階建で新築され、1階が酒場、2階が余興場であった。

1911年は「日本初のカフェ」とされるプランタン(3月)に続き、ライオン(8月)、パウリスタ(12月)と「カフェー」を冠する店が銀座に相次いで開店した年である。パウリスタはコーヒー中心だったが、ライオンは料理、酒が中心だった。

築地精養軒の経営であり、規模が大きく、一般客にも入りやすかったという。美人女給が揃いの衣裳(和服にエプロン)でサービスすることで知られたが、当時は女給が客席に同席することはなかった。

ビールが一定量売れると、ライオン像が吠える仕掛けになっていた。また、グランドホテル(横浜)出身の名バーテンダー・浜田晶吾がおり、「ライオンの宝」とも評された。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後はバラックの平屋建で営業を再開、後に本建築に建て替えた。
1924年、斜向かいにカフェー・タイガーが開業し、目立つ女給が引き抜かれるなどして、次第に勢いを失った。松崎天民には「女給の美的素質の上から言えば、第二三流」、「どれもこれもが、所帯染みている」と酷評され、また、タイガーなどに倣い、女給が客席に同席するようにもなった。

1931年(昭和6年)6月、大日本麦酒に経営が移り、8月にビヤホール(ライオンヱビスビヤホール、現在のビヤホールライオン銀座五丁目店)としてオープンした。
(出典:Wikipedia「カフェー・ライオン」)
カフェー・ライオンの女給さんは、 品行が良いことで評判...

カフェー・ライオンの女給さんは、 品行が良いことで評判でした。

出典:ほぼ日刊イトイ新聞 - 江戸が知りたい。東京ってなんだ?!テーマ3 「カフェーは明治の昔から」
https://www.1101.com/edo/2003-10-01.html

洋酒や洋食をメニューの中心として供したカフェー・ライオンの特筆すべき点は、女性給仕(ウェイトレス)のサービスにあった。和服にエプロンを纏った若い女給が客の話相手となったこの店は、いわゆるカフェーを代表する存在である。後年の美人喫茶やメイドカフェの嚆矢となったという見方もある。
(出典:Wikipedia「日本における喫茶店の歴史」)

1911年(明治44年) カフェーパウリスタが銀座に開業

カフェーパウリスタ

カフェーパウリスタ

カフェーパウリスタ(CAFE PAULISTA)は日本の喫茶店である。1911年(明治44年)、銀座に開業。各地に店舗を広げ、親しまれたが、1923年(大正12年)関東大震災の被災後に喫茶店経営から撤退。1970年に復活した銀座店は、昔のカップ、スプーンを復元するなどで「日本初のカフェ」を自認している。「パウリスタ」は「サンパウロっ子」の意味。

皇国殖民株式会社の社長であった水野龍は、ブラジルへの日本人移送の見返りおよびブラジルコーヒーの宣伝普及のため、ブラジルのサンパウロ州政府より3年間1,000俵のコーヒー豆(ブラジル種)の無償提供を受けられることとなった。

これを元に1910年(明治43年)、大隈重信に協力を仰ぎ合資会社カフェーパウリスタを設立し、翌1911年12月、「南米ブラジル国サンパウロ州政府専属珈琲販売所」と銘打ち、京橋区南鍋町(銀座6丁目)に「カフェーパウリスタ」を開業した。サンパウロ州政府からのコーヒー豆の無償提供は実際には12年間続いた。

1911年は3月にプランタン、8月にライオンと「カフェー」を冠する店が相次いでオープンした年である。プランタン、ライオンは洋酒や洋食も売り物で、女給仕を置いていたが、パウリスタはコーヒー中心、店員は少年であった。

1杯5銭のコーヒーを提供する庶民的な店舗として人気を博し、「誰もが気軽に親しむことが出来る喫茶店の元祖」と言われる。

芥川龍之介や平塚らいてうなどの文化人のほか、学生(特に慶応義塾の学生)や社会人などが出入りした。カフェーパウリスタは東京市内を始め、名古屋、神戸、横須賀など各地に店舗を展開し、ブラジルコーヒーを広めた。

1923年(大正12年)の関東大震災でほとんどの店舗が全壊する大きな被害を受けたこと、およびブラジル政府からのコーヒー豆の無償提供の契約期限が同年で切れたことにより店舗経営から撤退し、事業規模を縮小してコーヒーの輸入・焙煎業を主としてうようになった。戦時下の昭和18年には当局の指示により横文字の社名を日東珈琲株式会社に名称変更した。

1969年(昭和44年)、子会社として株式会社カフェーパウリスタを新たに設立し、1970年(昭和45年)、銀座8丁目に直営宣伝店「カフェーパウリスタ」をオープンした。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコが来日時に通ったという銀座店(銀座8丁目)は、1970年に再開したものである。
(出典:Wikipedia「カフェーパウリスタ」)

関東大震災(1923年)の翌1924年(大正13年) 「カフェー・タイガー」はカフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業した

「カフェー・タイガー」は「美しい女給と濃厚なサービス」...

「カフェー・タイガー」は「美しい女給と濃厚なサービス」が売り物

カフェー・タイガー(Café Tiger)は、かつて存在した日本の飲食店である。関東大震災後、銀座に開業し、カフェー・ライオンに対抗して勢力を伸ばした。

関東大震災(1923年)の翌1924年(大正13年)、カフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業した。「ライオン」と「タイガー」の競争ということでも話題を呼び、当時のヒット曲「当世銀座節」(西條八十作詞、中山晋平作曲、1928年)に"虎と獅子"と唄われた。

浅草のオリエントと同系列(浅野総一郎家の経営)で、オリエントから大勢の女給が移ってきたという。女給は16、7歳から25、6歳まで、30人近くがいた。

「美しい女給と濃厚なサービス」が売り物で、酒、料理は二の次だった。ライオンでは女給の監督が厳しく、少し品行が悪いとクビになったが、こうした女給をタイガーが引き取った。その結果、目立つ女性は皆タイガーに移ってしまった。

もっとも、関西から「エログロ好み」のカフェーが多数進出してきたため、タイガーのサービスもおとなしく感じられるようになったという。

後に、浅野家から本郷バーに経営が移った。警視庁がカフェー取締りを強化する中、1935年(昭和10年)に閉店した。

永井荷風、菊池寛、中村武羅夫、三上於菟吉らの作家がタイガーをひいきにした。広津和郎の小説『女給』で話題になった菊池寛のカフェー通いはこの店が舞台であった。

永井荷風は1926-27年にかけてタイガーの女給「お久」と馴染んだが、やがて500円の金を要求され、閉口させられた。後日、無頼漢の情夫がおり、度々ゆすりを働いていたことを聞き、日記に「黙阿弥劇の白浪物を見るが如し」と感想を記した。その後もタイガー通いは続き、カフェーを舞台にした小説『つゆのあとさき』を書いた(1931年5月脱稿、同年10月号の「中央公論」に発表)。
(出典:Wikipedia「カフェー・タイガー」)
カフェ・タイガーは三十名ほどの美人女給を赤・青・紫の三組に分け、日替わりで1、2階をローテーションしたそうです。まるで AKB48みたいなシステムですねー

それだけじゃない! ビール一本ごとに付く「投票券」で お気に入りの女給に人気投票ができたんです。これもAKBの「総選挙」と同じですね(こちらの投票券はCDですが)。

ちなみに ビールを150本買って お気に入りを一位にしたのは菊池寛。飲みきれない分は お持ち帰りしたそうですよ。
当時の女子の職業斡旋屋

当時の女子の職業斡旋屋

女中さん、カフェー、待合旅館などの求人

1920年代 - 日本で喫茶店ブーム。当時コーヒー一杯10銭。

風俗営業としてのカフェー。当時のカフェーが立ち並ぶ夜の新宿

風俗営業としてのカフェー。当時のカフェーが立ち並ぶ夜の新宿

カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後と見られる。震災の翌年(1924年)、銀座に開業したカフェー・タイガーは女給の化粧、着物が派手で、客に体をすり付けて話をする、といったサービスで人気を博した。

昭和に入り、大阪の大型カフェ(ユニオン、赤玉など)の進出により「銀座は今や(…)大阪エロの洪水」という状態で、女給は単なる給仕(ウエイトレス)というより、現在で言えば(バー・クラブの)ホステスの役割を果たすことになった。

ちなみに当時の女給は多くの場合無給であり、もっぱら客が支払うチップが収入源だった。1933年には、カフェーは特殊喫茶(風俗営業)として警察の管轄下に置かれることになった。

昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスの世相の中、夜の街を彩る存在として、カフェーは小説などの舞台にもなった。当時のカフェーを描いた小説として永井荷風「つゆのあとさき」、広津和郎「女給」がある(後者は菊池寛のカフェー通いを描いて評判になった)。また、谷崎潤一郎「痴人の愛」のナオミは、15歳で浅草のカフェーに出ているという設定である。林芙美子がカフェー勤めの経験を「放浪記」に書いたこともよく知られている。エッセイでは松崎天民「銀座」、安藤更生「銀座細見」などがカフェー風俗を活写している。
大正後期から昭和初期にかけてカフェーをテーマにした歌が流行し、カフェー歌謡という。

第二次世界大戦終戦後、いわゆる赤線地帯が発生し、かつての遊郭などがカフェー名目で営業を続けるようになったため、それまでのカフェーの方はバー、クラブなどと称するようになった。

法律用語の「カフェー」は今も残っており、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律第2条第1項第2号には「待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」という規定がある。

なお、「純喫茶」という呼称があるが、これは酒類の提供、女給の接待を売りにするカフェー(特殊喫茶)に対して、(純粋に)コーヒーを売りにする店、という意味である。
(出典:Wikipedia「カフェー (風俗営業)」)
昭和に入ると「飲食を提供しつつ(女給の)サービスを主体にした店」と、「あくまでコーヒーや軽食を主体とした店」への分化が進む。

前者はそのまま「カフェー」または「特殊喫茶」「特殊飲食店」としてバーやキャバレーのような形で次第に風俗的意味合いを持つようになった。

1929年(昭和4年)に「<カフェ><バー>等取締要項」が、1933年(昭和8年)に「特殊飲食店取締規則」が出され規制の対象となった。

一方後者は「純喫茶」「喫茶店」と呼称されるようになり、やがて外来する店舗も含んだ「カフェ」として発展していくこととなった。

1933年(昭和8年)当時は、特殊飲食店が喫茶店の2倍を数えたものの、一般庶民にコーヒーが浸透しはじめ、1935年(昭和10年)には東京市だけで10,000店舗を数えるなど順調に増え続けサービスや提供形態の多様化が進んだ。

多様化は地域の特性を育み、例えば銀座は高級感を売りに出した店舗が特徴として知られるようになり神田は容姿端麗な女性給仕を揃えた学生を対象としたサービスを展開、神保町は落ち着いた雰囲気で本を読みながら過ごすスタイルが定着した。

1933年(昭和8年) 「上島珈琲」が創業

上島珈琲。1933年(昭和8年)創業。

上島珈琲。1933年(昭和8年)創業。

ユーシーシー上島珈琲株式会社(ユーシーシーうえしまコーヒー、英:UCC Ueshima Coffee Co.,Ltd.)は、兵庫県神戸市中央区に本社を置く、コーヒーを中心とした飲料・食品メーカー。みどり会の会員企業。
コーポレートメッセージは、”Good Coffee Smile”。

創業者の上島忠雄(うえしま ただお、1910年10月25日 - 1993年10月31日)が1933年(昭和8年)に個人商店として創業。現在でもほぼ同族経営である。

呼称のUCCは"Ueshima Coffee Co.,Ltd."の頭文字に由来している。レギュラーコーヒー豆はもちろんだが、1969年(昭和44年)に世界初のミルク入り缶コーヒー、「UCCコーヒーミルク入り」(現在の「UCCミルクコーヒー」。別名「UCCオリジナル」)を発売したことでもその名を知られている。

自社のコーヒー農園を展開しており、1981年(昭和56年)にジャマイカでブルーマウンテンの農園を開設。1989年(平成元年)にはアメリカ合衆国ハワイ州ハワイ島でコナコーヒーの農園を開設させた。他にも1995年(平成7年)にはインドネシアスマトラ島でマンデリンの農園を開設している。なおブルーマウンテンコーヒーの直営農園は同社が初めてである。

東京都目黒区に本社があるウエシマコーヒーは100%子会社であるが、兄の上島治忠が創業し、同じく神戸市中央区に本社を置くウエシマコーヒーフーズ(U.COFFEE)との関連は、資本・経営面では一切ない。北海道で広く展開しているサッポロウエシマコーヒー(ユーコーヒーウエシマ)とは企業としての関連はなかったが、2008年に完全子会社化されている。また、大阪府堺市の上島珈琲貿易(マックコーヒー)は、UCCグループ会社ではないが、上島忠雄の兄である上島勝が創業者である。

東京ディズニーリゾート(東京ディズニーランド・東京ディズニーシー)・ユニバーサル・スタジオ・ジャパン・倉敷チボリ公園(2008年閉園)・ハウステンボス・宝塚歌劇のオフィシャルスポンサーである。
2010年(平成22年)4月1日付で持株会社制に移行し、社名をUCCホールディングス(登記上は、UCCではなくユーシーシー)へと変更、事業部門を新設のUCC上島珈琲に分割し、シャディ、ユーシーシーフーヅ、ユニカフェなどともに傘下に収めた。

2012年(平成24年)3月30日、シャディの全株をニッセンホールディングスに譲渡するとともに、第三者割当増資により、ニッセンホールディングスの筆頭株主になる。
(出典:Wikipedia「UCC上島珈琲」)

戦後の喫茶店

戦後の荒廃した日本で喫茶店が復活を見るのは1947年(昭和22年)頃からで、戦時下の代用コーヒーや米軍の放出品を用いたGIコーヒーなどが提供された。一般にコーヒーが再び広まるのは、輸入が再開された1950年(昭和25年)以降となる。

こうした輸入豆は、その需要のほとんどが喫茶店であったと見られ、オリハラコーヒーの代表である折原烈男は当時を振返り、「輸入が再開されたコーヒーはその9割以上が喫茶店で消費されていた。そのほとんどは個人経営の喫茶店だった」と語っている。

世の中が平静を取り戻すにつれ、そのときの世情を取り込んだ様々な喫茶店が興亡した。1960年(昭和35年)頃は個人経営の店が主流となり、店主のこだわりが店の個性として色濃く反映された喫茶店が人気を獲得した。

特に「音楽系喫茶」と呼ばれる喫茶店は、美輪明宏や金子由香利などを輩出した「銀巴里」に代表されるシャンソン喫茶、「ACB」「メグ」「灯」のようなジャズやロックの音楽演奏がサービスの主となったジャズ喫茶、歌声喫茶、ロック喫茶、後年のディスコやクラブなどに多大な影響を与えたロカビリー喫茶、ゴーゴー喫茶など多数の業態の店が誕生している。

LPレコードなど金銭的にも個人レベルでは入手が困難であった時代であり、喫茶店にはこうした音楽鑑賞を趣味とした庶民たちへの場所貸しといった要素が強く出ていた。そのため、住宅環境の改善や音楽配信媒体の低価格化が進むにつれ、こうした業態の喫茶店の需要は無くなっていった。

1950年代後半 - 日本でジャズ喫茶(JAZZ喫茶)、歌声喫茶、名曲喫茶などが流行。

日本初のシャンソン喫茶店「銀巴里」(1951年–1990年)

日本初のシャンソン喫茶店「銀巴里」(1951年–1990年)

銀巴里(ぎんパリ)は、1951年–1990年まで東京銀座七丁目にあった日本初のシャンソン喫茶店である。

「東の銀巴里、西のラ・ベル・エポック(武蔵野市吉祥寺 2009年10月31日閉店)」ともよばれた。
美輪明宏、戸川昌子、クミコ、仲マサコ、金子由香利、戸山英二、大木康子、長谷川きよしらを輩出し、三島由紀夫、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一らが集い、演出に尽力した。

閉店日には、銀巴里の名が記されたコーヒーカップや食器類が、すべて常連客によって持ち帰られた。
現在、跡地の銀座7丁目9番11号付近に石碑が立つ。
(出典:Wikipedia「銀巴里」)
ジャズ喫茶「銀座ACB(ぎんざアシベ)」(1957年-...

ジャズ喫茶「銀座ACB(ぎんざアシベ)」(1957年-1972年)

銀座ACB(ぎんざアシベ)は、1957年-1972年まで東京都中央区・銀座7丁目にあったジャズ喫茶である。

満州国からの引揚者・谷富次郎が銀座に料亭「あしべ」を妻の谷和子とともに開業。
妻の人柄が、政治家の三木武夫、中曽根康弘、鈴木善幸、園田直や、実業家の安西浩に愛され、安西が経営する東京ガス本社地下に、ジャズ喫茶を開店。

300席を擁し、店内中央に高い迫りによる回転ステージを設けるなど、国内最大規模のジャズ喫茶としての開業ではあったが、客足が伸び悩んでいたところに平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎らのロカビリーブームが起き、女学生が長蛇の列をなすようになった。

当時、学生だった橋幸夫や大宅映子も常連客であった。常連客は大半が演奏を聴く目的で来店していたため、喫茶店でありながらメニューはアイスコーヒーのみであった。

1960年12月24日、平尾昌晃の誕生日には大混雑し、女子高生数名の負傷事故が起きた。
ロカビリーブーム終焉後は、森山加代子、坂本九、橋幸夫、水原弘、ザ・スパイダース、ヴィレッジ・シンガーズ、ザ・ジャガーズ、ザ・ゴールデン・カップス、オックスらが舞台に立ち、女学生などから変わらぬ声援を受け続けたが、本格的なテレビ時代の到来とグループサウンズ(GS)ブームの終焉ともに1969年の秋に入ると急速に下火になり始め、その役目を終えたかのように1972年閉店した。
(出典:Wikipedia「銀座ACB」)

1960年(昭和35年)頃は個人経営の店が主流となり、店主のこだわりが店の個性として色濃く反映された喫茶店が人気を獲得した。

1960年代後半から1970年代 - 日本で純喫茶が流行。味に一家言持つようなオーナー店主が自らコーヒーを淹れて供するこだわりの店が増える。このような店主はバリスタの認定試験を受けたりする事も多い。

1964年(昭和39年)10月 「銀座ルノアール」は日本橋に第1号店を開店する。

銀座ルノアール

銀座ルノアール

株式会社銀座ルノアール(ぎんざルノアール)は東京都・神奈川県を中心に「喫茶室ルノアール」などの喫茶店をチェーン展開する会社。

都市型喫茶店として創業以来、早くからチェーン化を図り、喫茶店の直営店チェーンとしては業界の大手に成長。1989年(平成元年)11月には業界で初めて株式店頭公開を行った。

駅前での展開が多いのにもかかわらず、他のチェーン展開をしているコーヒーショップと比較してもゆったりとした座席配置となっている。 全店舗で無線LANサービスを利用でき、ノートパソコンや携帯電話充電のための電源としてコンセントも開放している。貸し会議室を「マイスペース」として都内店舗に設置しビジネスユーズに応えている。

また、低価格セルフサービス型コーヒーショップ「NEW YORKER'S Cafe」、中価格フルサービス型コーヒーショップ「カフェ・ミヤマ」も積極的に展開を図っている。また、「ブレンズコーヒー」を運営する株式会社ビーアンドエムは銀座ルノアールの子会社である。

2013年にキーコーヒー株式会社が資産管理会社の株式を取得し、同社の傘下に入った。

東京都中野区の煎餅店、有限会社花見煎餅(1955年10月設立)が1957年10月に四谷に喫茶店を開業したのが銀座ルノアールの前身である。その後、同社は喫茶店事業の展開を図るために喫茶部を独立させて有限会社花見商事を設立、日本橋に開店したのが第1号店となる。

元が煎餅店だっただけに創業当初のメニューには日本茶と煎餅のセットがあった。ルノアールの特徴ともいうべきロビー風喫茶室のスタイルは、「絨毯に金をかけすぎて資金不足となり、苦し紛れに椅子をまばらに配置したところ意外と客に好評だったため始めた」と創業者の小宮山正九郎が語っている[3]。このスタイルの基礎は1965年に開店した江古田店において確立した。
(出典:Wikipedia「銀座ルノアール」)
キーコーヒーは「銀座ルノアール」提携でフルサービス型喫...

キーコーヒーは「銀座ルノアール」提携でフルサービス型喫茶店の復権を狙う

出典 「昭和の喫茶店」は復権するか:日経ビジネスオンライン
キーコーヒーがルノアールとの提携に込めるもう1つの狙いは「昭和型喫茶店の復権」だ。同社は、ルノアールの既存店が位置する都市部はもちろん、住宅街やロードサイドにも照準を当て、セルフ型のカフェとは一線を画した喫茶店需要の掘り起こしを急ぐ。
Cafe Miyama 渋谷センター街店

Cafe Miyama 渋谷センター街店

カフェ・ミヤマ - 若い女性をターゲットにしたフルサービスの新業態。

1965年 「シャノアール (コーヒーチェーン)」は1号店「珈琲館シャノアール福生」開店

シャノアール (コーヒーチェーン)

シャノアール (コーヒーチェーン)

株式会社シャノアール(シャノアール、CHAT NOIR COMPANY, LTD.)は、日本の喫茶店コーポレイト・チェーン運営企業。東京都に本社を置き、全国に展開するコーヒーショップチェーンを経営する会社である。店舗はフランチャイズ・チェーン方式での展開ではなく、コーポレイト・チェーン方式(いわゆるレギュラー・チェーン方式)で展開している。

創業者中村脩が、フランスの中世期にパリの新進気鋭の芸術家たちがモンマルトルの丘のふもとにあるシャノアールというカフェに集い、雑談や議論を交わしていたとされているのを聴き、日本にもカフェ文化を根付かせたいとの思いからカフェ事業を始めた。そのカフェ文化の香りを受け継ぐ意味で、シャノアールという社名にし、店舗名もシャノアールとした。
(出典:Wikipedia「シャノアール (コーヒーチェーン)」)
1986年 新業態「カフェ・ベローチェ」開発

1986年 新業態「カフェ・ベローチェ」開発

1965年 - 1号店「珈琲館シャノアール福生」開店
1969年 - 3号店「新宿珈琲館&洋酒館」開店
1973年 - コーヒーマシン導入
1985年 - 業界初の全店舗POSシステム導入/朝食セットメニュー開発
1986年 - 50号店「シャノアール東村山店」開店/カフェ・ベローチェ開発
1987年 - カフェ・ヴィラージュ開発
1988年 - カフェテリア・ノックノック開発
1993年 - 仙台地区に進出/100号店「シャノアール飯田橋店」開店[要出典]
1996年 - 「ブック&カフェ」開発
1997年 - 「イタリアンレストラン リアナ・バデッラ」開発/九州地区に進出/コーヒー豆・関連グッズ販売開始
2002年 - 社内にクラシフィカドール(コーヒー鑑定士)誕生/関西地区に進出
2003年 - 200号店「カフェ・ベローチェ春日駅前店」開店
2005年 - 広島地区に進出
2006年 - 板橋本町から池袋サンシャイン60ビルへ本社移転
2007年 - 「カフェ・ラ・コルテ」開発
2008年 - シャノアール研修センター(千葉県市川市)完成
(出典:Wikipedia「シャノアール (コーヒーチェーン)」)

日本の高級喫茶店のはしりとな「談話室滝沢」が東京都内にオープン(1966年)

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