F1の安全対策の歴史:ドライバーの安全性を高めるリスクマネジメントの進化
2016年3月22日 更新

F1の安全対策の歴史:ドライバーの安全性を高めるリスクマネジメントの進化

1970年代のF1では『毎年25人中2人が死ぬ』と言われる程に、最高速のスピードで戦うF1は、栄光と危険は背中合わせ。だからこそ限界ギリギリのところで勝負しているチームやドライバーに魅了されるところもあります。マシンテクノロジー・パイロットやチームの意識・コース設定やレース運営やレギュレーション、あらゆる面で徹底的に完全面を高め続けて挑まないと、F1は時には牙を剥くことがあります。F1の安全性に関する技術・規定・コース設計・レース運営思想がどのように進化し続けているか振り返ってみましょう。

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F1創生期のドライバーたちは常に死と隣り合わせ、命を懸けるリスクが高かった

モーターレースの誕生とともに、ドライバーたちは常に死と...

モーターレースの誕生とともに、ドライバーたちは常に死と隣り合わせで生きてきた。

モーターレースの誕生とともに、ドライバーたちは常に死と隣り合わせで生きてきた。

安全基準の著しい改善のおかげで、競技中の重傷者や死亡者は大幅に減少。

F1で最後の死亡事故は、1994年に起きたアイルトン・セナの事故だ。

だが、創生期の死者数は驚くべき数に上る。
この記事が書かれた後、1994年から21年ぶりの2014年日本グランプリ:ジュール・ビアンキ(マルシャF1チーム)の死亡事故が起きています。

1970年代、毎年2人が事故で死亡する危険なF1の世界で伝説的な存在の「ニキ・ラウダ」も1976年に大事故を起こすが奇跡的にも生還した。

1976年の事故前のニキ・ラウダ

1976年の事故前のニキ・ラウダ

アンドレアス・ニコラウス・"ニキ"・ラウダ(Andreas Nikolaus "Niki" Lauda 、1949年2月22日 - )は、F1レーシングドライバー。オーストリアのウィーン出身。1975年、1977年、1984年のF1チャンピオン。「スーパーラット」、「不死鳥」の異名を持ち、その走りはコンピューターと云われた。

1976年、ニュルブルクリンクで開催された第10戦ドイツグランプリで悲劇に襲われる。タイヤ交換で後退してから順位を挽回中に「ベルクヴェルク」の一つ手前にある左に廻る高速コーナーで突然コントロールを失い、右側のキャッチフェンスを突き破り、露出した岩に衝突、衝撃でヘルメットが脱げてしまった。

発火したマシンはコース中央まで跳ね返され停止、これにブレット・ランガーのサーティース・TS19が衝突し、アメリカ人ドライバーのガイ・エドワーズ、後続で停止したハラルド・アートル、アルトゥーロ・メルツァリオ、ランガー、コースマーシャルの5人が捨て身の行動で消火・救出活動を行った。

事故原因については、縁石を乗せた弾みのスピン説やリアサスペンションの故障説なども浮上したが、現在も謎のままである。しかしラウダはタイヤトラブルだと語っている。

ヘルメットが脱げた影響で頭部に大火傷を負い、FRP製のボディーワークが燃えて発生した有毒ガスを吸い込んだため、肺に深刻なダメージを受けた。

全身のおよそ70%の血液を入れ替え、数日間生死の境をさ迷ったが、牧師が病室に訪れた途端にラウダは驚異的なペースで回復。事故発生から6週間後の第13戦イタリアグランプリで奇跡のレース復帰を果たし、4位入賞した。大腿部の皮膚を移植した顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っている状態だったが、ラウダは周囲の好奇の目を気にする事も無かった。
(出典:Wikipedia「ニキ・ラウダ」)

ニキ・ラウダの伝記アクション映画『ラッシュ/プライドと友情』 のクラッシュ炎上事故シーン - YouTube

映画『ラッシュ/プライドと友情』は1976年のF1世界選手権でのジェームス・ハントとニキ・ラウダのライバル関係を題材としている。

1970年代、毎年2人が事故で死亡するF1の世界で伝説となった2人のレーサーが存在した。

ジェームズ・ハントは野性的思考であり、毎日を人生最期の日の様に謳歌する豪放なプレイボーイで、勘を活かした走りを得意としていたイギリス人。

ニキ・ラウダは「コンピュータ」と評される論理的思考であり、レーサーのイメージとはかけ離れた勤勉な男で、工学の知識を活かして自らマシンを整備する走りを得意としていたオーストリア人。全く正反対の性格の2人はやがてライバル関係となり、度々レースで競い合う仲になる。

そして1976年― シーズン成績1位を独走するラウダとそれを追うハント。ドイツグランプリのその日は朝から豪雨でニュルブルクリンクサーキットの状態が悪かったため、レースを決行するべきかどうか審議が行われた。ラウダは中止を主張したが、ハントは決行を支持し、最終的に予定通り開催されることとなった。

しかし、そのレースでラウダはクラッシュし、生死をさまよう重症を負ってしまう。ハントは彼のクラッシュの原因が自分にあると考えショックを受けるが、その後のラウダが参加できないレースでラウダとの差を埋めていく。

一命は取り留めたラウダは、病院でその様子を見て奮起し、事故後わずか42日後にレースに復帰する。
Q:当時は信じられないほど危険でした。今のマシンを見てどう思いますか?

ニキ・ラウダ: 今は全く危険ではない。ドライバーが亡くなったのは、19年前のかわいそうな(アイルトン・)セナが最後だ。だから改善した。比較することはできない。

なぜなら、当時のわたしたちは、自分の命を賭けたいかどうかを自問しなくてはならなかったからだ。わたしは、マシンをドライブしレースに勝ちたかったので、イエスと言った。当時のエゴと恐怖心のなさで、そうしたんだ。
事故直後の共同記者会見

事故直後の共同記者会見

大腿部の皮膚を移植した顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っている状態だった。

1968年のジム・クラークの死亡事故などをきっかけにフォーミュラカーにシートベルト装着が義務づけられた

1960年代以前のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されていなかった

1960年代以前のフォーミュラ・カーにはシートベルトが...

1960年代以前のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されていなかった。そのため、ドライバーが飛んでいってしまう死亡事故が多発した。

シートベルトが装着されていないのでドライバーが飛んでい...

シートベルトが装着されていないのでドライバーが飛んでいってしまう死亡事故が多発した。

天才ドライバー「ジム・クラーク 」の事故(1968年)...

天才ドライバー「ジム・クラーク 」の事故(1968年)は当時のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されていなかったため、車から放り出されて即死するというものだった。

ジム・クラーク はF1の歴史において最も優れたドライバーのひとりに数えられ、天性の速さの資質においてアイルトン・セナと並び称されている。
第2戦スペインGPまでのインターバル中、クラークは4月7日にドイツのホッケンハイムリンクで開催されたヨーロッパF2選手権第2戦に出場した。その第1ヒートの5周目、森の中の右高速コーナーでクラークの乗るロータス・48が突然コースアウトして木に激突し、クラークは事故死した。

当時のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されていなかったため、車から放り出されて頭と首の骨を折り、即死状態だった。32歳没。事故原因は左後輪タイヤのスローパンクチャーといわれているが、完全には特定されていない。
当時のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されてい...

当時のフォーミュラ・カーにはシートベルトが装着されていなかった。安全対策意識が現代の視点からすると極度に欠けていた。

ロータス・25に乗るクラーク(1962年ドイツGPにて)

マシンの信頼性・強度自体も低かった。コースレイアウト、レースコントロール・・・すべてが現代からするとないに等しいレベルで、生死をかけた勇気を試すような世界だった。

レーシングカーでは軽量化のため限界まで肉厚(=強度)を落とすこと(ギリギリの強度)が常道であり、強度不足によるパーツ破損・マシントラブルが起こる

1970年イタリアグランプリ:ヨッヘン・リント(チーム・ロータス) 事故原因「軽量化を優先したトルクロッドの強度不足が原因と考えられる」

1970年イタリアグランプリ:ヨッヘン・リント(チーム...

1970年イタリアグランプリ:ヨッヘン・リント(チーム・ロータス)

1970年代のF1は毎年2人が事故で死亡する危険な世界。
事故の原因は、ロータス・72の特徴だったフロントインボードブレーキのトルクロッド(制動力を車輪に伝達する棒)が折損したためと言われており、リントの運転ミスではないと見られている。

マシンはパラボリカへのブレーキングで急激に左へ転回し、ほとんど最高速を保ったままコース外側の壁に激突しているが、これは右側のフロントブレーキが全く効かなくなった(トルクロッドが折れた)結果と言われる。

レーシングカーでは軽量化のため限界まで肉厚(=強度)を落とすことが常道で、これがリントの事故死につながったと言われる。リントの事故の後ロータス72のトルクロッドはより太いものに変更されたと言われる。
1970年イタリアグランプリ:ヨッヘン・リント(チーム...

1970年イタリアグランプリ:ヨッヘン・リント(チーム・ロータス)の死亡事故

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