見栄晴のプロフィール
本名:藤本正則(ふじもとまさのり)
生年月日:1966年11月13日
出身地:東京都
身長:170センチ
所属:浅井企画
デビューのきっかけ:子役として「ケンちゃんシリーズ」などに出演。
15歳のときに「欽ちゃんのどこまでやるの!?」のオーディションを受け、最終選考2名に残り、見事じゃんけんで萩本見栄晴役を射止めています。
その後はバラエティー番組「とんねるずの生でダラダラいかせて」やドラマ「白鳥麗子でございます」などで活躍しました。
わらべ2枚目シングル
— 新宿ヤングマン (@idwYuDySAKIbta6) July 27, 2022
「欽ちゃんのどこまでやるの!」挿入歌
1984年オリコンシングルチャート年間
1位を記録したわらべ最大のヒット曲!!
グループ名は萩本欽一さんが
「童」と「笑うべ」をもじって命名
されたそうです😊#新宿三丁目ヤングマン#昭和歌謡曲#昭和アイドル#わらべ#欽どこ pic.twitter.com/GqpYEJ20MI
1990年代前半までは本名の藤本正則で活動していましたが、見栄晴のイメージが強く芸名を見栄晴とに改め、一時期は藤本見栄晴と名乗っていました。
東海大学に通っていましたが、ギャンブル依存が強く中退しています。
2007年に結婚するまでは、自堕落な生活を送りギャンブルや宴席にお金をつぎ込み消費者金融からの借金は1000万円にも嵩んでしまいました。
飲食店を経営していたお母さんは、激怒しながらも700万円を肩代わりしてくれたそうです。
#実は最初はそうじゃなかったこと#欽どこ
— 左卜全温度Cheer&ひまわりちゅーりっぷ🌻920701🌷 (@_30776506271) November 8, 2017
“見栄晴”こと藤本正則さんは見栄晴としては三代目。その前は西沢祐一郎という子役がいて、丸八眞綿のCMで高見山と共演したりしてました。
なお、初代の見栄晴は人形です。 pic.twitter.com/HDyzKsmQSM
そんな見栄晴さんは競馬好きタレントとしてイメージも定着し、競馬情報番組『競馬予想TV!』の司会も長く続けて、現在も継続しています。
俳優としての活動も続けていて、2020年の『病室で念仏を唱えないでください』に出演。
またTOKYO MX『ギャルと恐竜放送期間』の実写パートにも出演していました。
ただ残念ながら見栄晴さんを愛し助けてくれたお母さんは、2017年5月に永眠しています。
斉藤清六のプロフィール
本名:斎藤 精陸(さいとうせいろく)
生年月日:1948年6月15日
出身地:東京都北区
デビューのキッカケ:1971年に萩本欽一さんのもとに弟子入りしようと押しかけます。
3日間萩本欽一さん宅にいましたが、その後萩本欽一さんの一言で浅草修行に行くことに。
10年後、舞い戻り欽ちゃんファミリーに入りました。
斎藤清六 ギンギラギンにさりげなく
「村のぉ~時間のぉ~時間です!」と登場し、「あぜ道カットでお馴染みの甘栗坊や」と名乗り人気者になりました。
お馴染み「村の時間」のコーナーは、当初は萩本家のお茶の間に置かれていたテレビに放送する形で行なわれており、最初に清六が「村の時間がやってまいりました」と言ったのを「君ね『村の時間』は番組名だろ。普通は●●(番組名)~の時間ですって言うだろ」と萩本に突っ込まれ「村の時間の時間がやってまいりました」と言ったところ観客が大ウケし、以後この言い方に定着した。たどたどしい口調や、ハガキの宛先の郵便番号(106)を決まって「ひゃくまるろく」と言うなど、独特の言い回しが特徴であった。
1996年以降は、バラエティー番組へのレギュラー出演はなく、現在は単発で出演するのみとなりました。
ただドラマの端役には、今でも度々登場しています。
極度の音痴で歌う、近藤真彦さんの「ギンギラギンにさりげなく」の熱唱など唄でもお茶の間を沸かせてくれました。
そのほのぼのとしたキャラで一時代を築いた斉藤清六さんは、現在浅井企画から独立し「清六企画」を設立し、現在も活躍を続けていました。
まとめ
子供の頃大好きだった「欽どこ」の出演者の見栄晴さんと、斉藤清六さんが今も元気で活動していて嬉しいです。
今後も応援していきたいですね。