2022年5月31日 更新
【訃報】元日本兵・横井庄一さんの妻・横井美保子さん死去。
元残留日本兵として一躍時の人となった横井庄一さんの妻・美保子(みほこ)さんが27日、脳出血のため京都市内の病院で亡くなっていたことが明らかとなりました。94歳でした。
【訃報】元日本兵・横井庄一さんの妻・横井美保子さん死去。
元残留日本兵として一躍時の人となった横井庄一さんの妻・美保子(みほこ)さんが27日、脳出血のため京都市内の病院で亡くなっていたことが明らかとなりました。94歳でした。
第一報はこちらです!
美保子さんは、庄一さんが1972年2月に帰国した9か月後の1972年11月に庄一さんと結婚。見合い結婚であり、庄一さんから「冷やかしで来たのか?」と問いただされると「失礼な!そんな気持ちで来たわけではない」とぴしゃりと否定し、同じうさぎ年生まれ(庄一さんは当時56歳、美保子さんは当時44歳で一回り差)だったことも手伝い意気投合し結婚、結婚後は日本での社会復帰を目指す庄一さんの生活を支え続けていました。そして結婚から25年が経過した1997年に、庄一さんは82歳で死去。その後2006年には、名古屋市の自宅を改装し「横井庄一記念館」をオープン。庄一さんの潜伏生活の記録など、彼の“苦難の人生”について、語り継ぐ活動を続けていました。
名古屋の地元局・CBCテレビも訃報を報道!
「恥ずかしながら生きながらえておりました」残留日本兵・横井庄一さんの妻・美保子さん(94)死去 戦争反対を訴え続ける(2022/5/30)
美保子さんが伝え続けた、横井庄一さんの生涯。
横井庄一さんの人生の語り部として、庄一さんの死去後も精力的な活動を続けていた美保子さん。ここでは、庄一さんの生涯について、軽くおさらいをしておきましょう。
28年間に及ぶ、潜伏生活。
庄一さんが兵役についたのは1935年(当時20歳)のとき。その後1941年に満州、1944年にグアム島に配属されました。そして1945年、ポツダム宣言の受諾による日本政府の無条件降伏により戦争は終結したものの、庄一さんにはその情報が届かず、ジャングルにて数名の仲間とともに潜伏生活を続けていました。1964年以降は、行動を共にしていた仲間の死去により一人で地下壕で潜伏。そして1972年1月、食料を確保するための罠を仕掛けに行ったところを現地住民に取り囲まれ、身柄が確保。同年2月に日本へと帰還することとなり、28年に及ぶ潜伏生活に終止符が打たれることとなりました。
「恥ずかしながら帰って参りました」一躍時の人に。
1972年2月2日、庄一さんの帰国はNHKの報道特別番組「横井庄一さん帰る」で放送され、同番組は41.2%と高い視聴率を記録。記者会見での発言「恥ずかしながら生きながらえておりましたけども」を若干改変した「恥ずかしながら帰って参りました」は、その年の流行語となりました。このように日本中が注目する中、ある種の「客寄せパンダ」となってしまった庄一さんは一時人間不信に。そんな彼を救ったのが後に妻となる美保子さんで、結婚後は庄一さんの社会復帰、講演活動などのサポートを行っていました。
死後、横井庄一記念館が開設。
マスコミの熱狂がひと段落してからは、陶芸に没頭するなど新たな生きがいを見出していった庄一さん。1997年9月、心臓発作により82歳で死去しました。そして21世紀に入り、美保子さんが館長を務める形で「横井庄一記念館」の建設計画が持ち上がり、自宅を改装し2006年6月に開館が実現。庄一さんが潜伏していた地下壕や、魚を採るかごといった現地での生活で使用していたものを復元し展示するなどしていました。
庄一さんに寄り添い、その死後も庄一さんの記憶を現代に残すための活動を続けていた美保子さん。先の戦争については「戦争はだめ。平和がどれほど尊いことか。横井の戦争から少しでも感じていただきたい」と、一貫して否定する立場を取り続けていました。そんな平和の語り部としての美保子さんの生涯もまた、庄一さんの生涯とともに語り継がれていくことでしょう。ご冥福をお祈り申し上げます。
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