1976年デビュー:太川 陽介・GODIEGO(ゴダイゴ)・国広 富之・星 正人・清水 健太郎
太川 陽介(たがわ ようすけ、1959年1月13日 - )
京都府中郡大宮町(現:京丹後市)出身。東京都調布市在住。サンミュージックプロダクション所属。
身長171cm。妻は女優の藤吉久美子。
1976年、「陽だまりの中で」でレコードデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは「昇れ!太陽くん」。芸名は都倉俊一によるもので、「太陽という文字を入れてみました」とのことである。
翌1977年、3曲目の「Lui-Lui」が太川自身最大のヒット曲となり、同年暮れの第19回日本レコード大賞を初め、各音楽大賞の新人賞を総なめにした。歌詞の最後で「Lui-Lui!」と叫ぶポーズが、太川のトレードマークとなっている。1978年よりNHK総合「レッツゴーヤング」の司会を務めるなど、昭和50年代を代表するアイドルであった。明るい曲調でヒットした「Lui-Lui」の次の曲が硬派路線の「Cry・Cry・Cry」だった。太川は「ルイルイの後はクライを三連発する曲となったけど、本当はB面の方が明るい曲でそちらを歌いたかった」と語ったことがある。
その後アイドル歌手から俳優・タレント業に転向。もともとアイドルとしては茶目っ気や庶民性を前面に出すタイプであったこともあり、ホームドラマやコメディに適した俳優としてNHKなどでは特に厚遇された。現在では主に舞台を中心に、ラジオパーソナリティ、旅番組などで幅広く活動している。
1995年、女優の藤吉久美子と結婚(太川は初婚だったが藤吉は再婚)。2001年には長男が誕生した。芸能界のおしどり夫婦として有名である。なれそめは、1994年にNHK大阪で藤山直美主演のドラマ新銀河『大阪で生まれた女やさかい』の撮影で共演したこと。撮影終了後に新大阪駅に向かうタクシーで相乗りし、そのまま新幹線で東京まで一緒に帰り、東京で食事をし、交際につながった。ちなみに前述のドラマでは、二人が一緒に出てくるシーンは一度しかなかった。また、それ以前はお互い顔と名前を知る程度で特に面識は無かったという。
GODIEGO(ゴダイゴ)
タケカワユキヒデ(ボーカル、キーボード)(1975 - 1985、1999 - 2000、2006 - )
浅野孝已(ギター、ボーカル)(1975 - 1985、1999 - 2000、2006 - )
スティーヴ・フォックス(ベース、ボーカル)(1975 - 1980、1999 - 2000、2006 - )
トミー・スナイダー(ドラムス、ボーカル、フルート)(1977 - 1985、1999 - 2000、2006 - )
吉沢洋治(ギター、ベース、ボーカル)(1980 - 1985、2014 - )
の6人が主なメンバー。
他に
原田裕臣(ドラムス)(1975 - 1976)
浅野良治(ドラムス)(1976 - 1977)
も在籍していた。但し原田については、ゴダイゴメンバーではなく、ミッキー吉野グループメンバーという解釈からか、公式サイトでは紹介されていない。
1975年、ミッキー吉野がスティーブ・フォックス、浅野孝已、原田裕臣、タケカワユキヒデ等と共にゴダイゴを結成。
1976年、アルバム『GODIEGO (I、Suite;GENESIS/新創世紀)』でデビュー。
1977年、アルバム『DEAD END』を発表。
1978年にテレビ番組『西遊記』のエンディングテーマ「ガンダーラ」、同主題歌「モンキー・マジック」、1979年にはユニセフ国際児童年協賛曲「ビューティフル・ネーム」、映画『銀河鉄道999』主題歌、『西遊記II』エンディングテーマ「ホーリー・アンド・ブライト」をリリースした。「ガンダーラ」と「モンキー・マジック」が7週間にわたり同時にベスト10にランクイン。
また、「ビューティフル・ネーム」、「ハピネス」(タケカワのソロ名義)、「はるかな旅へ」、「銀河鉄道999」の4曲が同時にベスト20にランクインするなど大ヒットを連発した。これらのヒットはとりわけ低年齢層に受け入れられたためである。なお、この時期には「ガンダーラ」、「モンキー・マジック」、「銀河鉄道999」の3曲で通算9週間2位という珍記録も残した。
国広 富之(くにひろ とみゆき、1953年4月23日 - )
ファッションモデル兼女優の谷内里早は、実娘。
1976年、大学卒業と同時に松浦竹夫演劇研究所に入所。翌年、TBSドラマ『岸辺のアルバム』でデビューし、脚光を浴び、ゴールデンアロー新人賞受賞。演技力とその八重歯をチャームポイントとした甘いルックスでアイドル的な人気を得た。
その後、『赤い絆』、『噂の刑事トミーとマツ』など人気ドラマで活躍し、とりわけ1980年代には大映ドラマの常連俳優の一人であった。
1979年の大河ドラマ『草燃える』では従前の「悲劇の貴公子」というイメージを覆す源義経(同作では野心家かつ政治的に無能な男として描かれている)演技をし、話題となった。
その後、大河ドラマへの出演は長らく途切れていたが、2012年に『平清盛』にゲスト出演し、33年ぶりの大河出演を果たした。また、翌2013年の『八重の桜』にも準レギュラーとして出演している。
星 正人(ほし まさと、1954年6月20日 - )
映画『青春讃歌 暴力学園大革命』(1975年)で主演デビュー。1976年にテレビドラマ『七色とんがらし』でレギュラー出演した後、『刑事くん』の二代目主人公となる。その甘いマスクからアイドル的人気を得ており、ブロマイド売上で1975年度男性俳優部門12位、1976年度12位に入った。
1980年代に入るとそれまでの二枚目役だけでなく、悪役・敵役も演じた。1987年、体調不良を理由に芸能界を引退。
清水 健太郎(しみず けんたろう、1952年10月11日 - )
TBSの若者向け情報番組『ぎんざNOW!』の1コーナー「素人コメディアン道場」に、大学の後輩である清水アキラが出場しものまねを披露する際、バックでギターを弾いていたのが好評を受ける。1975年から『ぎんざNOW!』で木曜日のコーナーを担当し、そのアイドル的なルックスで大きな話題となる。
1976年11月にデビュー曲「失恋レストラン」(作詞・作曲:つのだ☆ひろ)がリリースされ、翌1977年にかけて爆発的な大ヒットとなる。その後も「帰らない/恋人よ」「遠慮するなよ」「泣き虫」などのヒット曲を飛ばした。1977年12月31日に『第19回日本レコード大賞』最優秀新人賞を獲得するなど、同年の新人賞受賞を総ナメにし、さらに『第28回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。
歌手活動と並行し、ドラマ『太陽にほえろ』で俳優としてもデビュー。『ムー』『ムー一族』などにも出演した。また、アイロンパーマをかけてから髪を短くカットする「健太郎カット」が当時の男性の間で流行した。
1977年デビュー:川﨑 麻世・世良 公則・原田 真二
川﨑 麻世(かわさき まよ、1963年3月1日 - )
14歳の1977年7月1日に、CBSソニーから「ラブ・ショック」でレコードデビュー。ブロマイドがヒットし人気アイドルとなる。美少年で鼻が高く、特に脚が長い事で有名だった(現在の身長は181cmであるが、身長177cmの時点で股下が93cmあり、当時の芸能界では一番脚が長いと言われた)。またファンによる親衛隊も数多く作られ、代表的なグループは「まよねーず」である。
NHKの人気音楽番組『レッツゴー・ヤング』に「サンデーズ」のメンバーとして起用され、最長の5年半在籍(田原俊彦や松田聖子もデビュー時はサンデーズの一員だった)。
自著によれば、アイドル時代からジャニーズ事務所には「麻世を杉良太郎のような舞台俳優として成功させたい」という計画が存在し、メリー喜多川の口癖でもあった。当時から事務所は川崎を舞台俳優に育て上げるのを将来の目標に、人脈作りなど着々と準備をしてくれたという。そしてたのきんトリオ登場後、アイドル歌手として存在感が薄くなり往時ほど利益を生み出せなくなった川崎に対し、諸費用を全てジャニーズ事務所が負担し、ニューヨークへ本場のミュージカルを学びに行かせる投資もした。
1983年、歌手の仕事の傍らで東京工芸大学短期大学部画像技術科グラフィックデザインコースを卒業。また同年から劇団四季「キャッツ」など舞台俳優として活躍し、渡米後国際的俳優に成長。1988年11月から1989年1月の間、ミュージカル「スターライト・エクスプレス」に、「新幹線・ハシモト」役として出演。日本人では唯一人の出演だった。
世良 公則(せら まさのり、1955年12月14日 - )
1977年11月のレコードデビュー、翌1978年1月のテレビ初出演(夜のヒットスタジオ、フジテレビ、1月9日)後は、出す曲出す曲大ヒット、わずか1年足らずで頂点に立ち一世を風靡した。
Char、原田真二と共にロック御三家と言われ、それまでのテレビを拒否していたニューミュージック系のミュージシャンと違い、テレビアレルギーのない世良らは、有効なプロモーシャン・メディアとしてのテレビを積極的に利用していった。
当時は『ザ・ベストテン』が始まった時期で、このようなランキング番組や『レッツゴーヤング』などのアイドル系歌番組にも積極的に出演、「銃爪(ひきがね)」で、『ザ・ベストテン』初年度年間1位も獲得した(1978年)。
また、当時の売れっ子アイドル最大のステータスともいうべき「月刊明星」の表紙を日本のロックバンドで初めて飾った(1978年8月号)。この他、ツイストとして4度、世良単独でピンク・レディーらと2度表紙を飾る(単独の場合は基本的に男女二人)。
「月刊平凡」の表紙はツイストとして2度、世良単独で1度。こうした「月刊明星」「月刊平凡」等のアイドル雑誌、「セブンティーン」「プチセブン」などのティーン雑誌やテレビに頻繁に登場・出演した最初のロックミュージシャンであった。
彼らの成功は、1970年代後半の歌謡曲とニューミュージックの全盛時代に新たに「ロック」をオーバーグラウンドにのし上げる事となった。
原田 真二(はらだ しんじ、1958年12月5日 - )
1977年4月、青山学院大学経済学部第二部経済学科入学と同時に上京。18歳だった同年10月25日に、拓郎プロデュースにより「てぃーんず ぶるーす」でデビューした。
フォーライフに送った応募テープは、一人で多重録音をしていたといわれ、ピアノの他、ギター、シンセサイザーもこなし編曲も自分でやったといわれる。セカンド・アルバムをセルフ・プロデュースしたように最初から音楽的すごさ・才能のずば抜けた"早熟の天才"であった。
テレビドラマ
少年探偵団 (BD7)(1975年10月-1976年3月、日本テレビ) - 小林芳雄 役 主演
笑って!笑って!!60分番組内ドラマ「続・哀愁学園」(1976年、TBS)レギュラー
テレビ番組
「レッツゴー・ヤング」(NHK、1977年4月 - 1979年3月) サンデーズ
東京で生まれ、子供服のモデルを経て1975年に少年探偵団で俳優デビュー。その後はタレント活動をしていたが1979年に東京都調布市のアメリカンスクール・イン・ジャパンを卒業しカリフォルニア大学サンディエゴ校への入学を機に芸能界を引退。翌1980年国際基督教大学教養学部に編入学。
卒業後の1984年に日本テレビ放送網入社。制作局、スポーツ局でディレクター、プロデューサーを経て1988年に同退社。フリーのディレクターを経て、1998年に番組・CM制作会社の株式会社オーディンを東京都目黒区に設立。
同社は主にNHKのスポーツ番組、国際ニュースの制作。スポーツ専門局GAORAの海外スポーツ番組制作やAXNの映画情報番組制作。他にプロアクティブなどのマーケティングおよびクリエイティブを手掛ける。2004年から広告代理店ジャパンティーヴィー株式会社の取締役、2005年からガシーレンカージャパンのコンサルタントも務める。