1973年デビュー:城 みちる
イルカにのった少年 城みちる(1974) - YouTube
1974年デビュー:あいざき 進也・ずうとるび・松田新太郎・江川ひろし・荒川 務
あいざき 進也(あいざき しんや、1956年10月26日 - )
1973年、NETのオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』第1回グランドチャンピオン大会で優勝し、翌1974年にワーナー・パイオニアから「気になる17才」でデビュー。
アイドル時代末期の1980年からは寺内タケシの許でバンドボーイとして修業。当時は本人の気まぐれと発表されたが、実際は渡辺プロダクションが与えた「試練」だった。寺内の下には複数のバンドボーイがいたが、軍隊の如くに規律や上下関係が厳しく、彼に認められてバンドボーイを卒業するまでの1年あまりは休みもない、辛い下働きの日々を過ごした。
人気アイドルから事実上の雑用係への転身は、当時話題となった。こうした影響もあってか、しばらく芸能活動を休止した。復帰後、ものまね番組に出場した際には浜崎あゆみのものまねをして登場した。
1974年初頭、城みちるや松田新太郎とともに「新新御三家」と呼ばれた。
ずうとるび
日本テレビの番組「笑点」のコーナー「ちびっ子大喜利」にて、山田隆夫が座布団10枚を獲得したことがデビューのきっかけとなった。
元々ギターが弾けた山田以外はまったく楽器が出来ず、パート決めでは楽譜が読めなくても演奏できそうなドラムパートの奪い合いになったと当時の芸能雑誌に紹介されていた。1974年2月に『透明人間』(作詞・作曲:山田隆夫)でデビューして以来、通算でシングル20枚、アルバム9枚などを発表した。
「ずうとるび」という名前は本人たちは、「ビートルズをひっくり返した」と言っている。ずうとるびの代表的なヒット作品には、『みかん色の恋』『恋があぶない』『初恋の絵日記』などがある。また、多数のバラエティ番組出演でも高い人気を持っていた。
松田新太郎(まつだ しんたろう、1955年12月5日)
君でいっぱい(1974.2.1、ポリドール)
荒川 務(あらかわ つとむ、1960年8月26日 - )
13歳の時、モノマネ番組で郷ひろみの歌を唄い、松島とも子に見出され、『太陽の日曜日』でNAVレコードから歌手デビューを果たす。
1974年、第16回日本レコード大賞新人賞を受賞。アイドル歌手として活躍。
太陽の日曜日(作詞:安井かずみ、作曲・編曲:都倉俊一) 1974年6月10日
1975年デビュー:豊川 誕・井上 純一・加納 竜・草川 祐馬・黒沢 浩
豊川 誕(とよかわ じょう、1958年10月5日 - )
ジャニーズ事務所に所属し、1975年3月21日に『汚れなき悪戯』でレコードデビュー。
1979年にジャニーズ事務所を離れ、1980年10月に「オール・ジャパン・デビル・バンド」名義で『トゥモロー』をリリース。 続いて1981年1月には『愛したら最後』をソロでリリースした。
井上 純一(いのうえ じゅんいち、1958年8月14日 - )
東京都世田谷区代田出身。(株)NLT所属。早稲田大学高等学院卒業。早稲田大学第一文学部中退。アイドル時代の愛称は「ジュン」。 元妻は女優・声優の戸田恵子。
1974年、早稲田大学高等学院1年生の時にジャニーズ事務所に入り、ジャニーズJr.になる。 一時期「JOHNNY'Sジュニア・スペシャル」のメンバーにも選ばれたが、すぐに脱退した。
1975年8月1日、コロムビアレコードから『恋人ならば』でソロレコードデビュー。高校の校則が厳しかった為に、デビューは夏休みの期間となった。当時のキャッチフレーズは「ポストひろみ」、「クリーン・エイジの白い恋人」。 同年、ニッポン放送主催の「銀座音楽祭」にも出場した。 また、レコードデビューと同時に草刈正雄との共演映画『俺たちの恋人』の撮影もクランクイン(後にお蔵入り)。
更には、映画『はつ恋』にていきなりの主演も果たすなど、ふんわりした独特のパーマヘアと爽やかなキャラクターで人気を博した。 その後も、テレビドラマ『ゆうひが丘の総理大臣』や『池中玄太80キロ』などにも出演し、歌手活動よりは俳優活動の方が目立っていた。
アイドル歌手としての華々しい活動は少なかったが、数々の人気ドラマへのレギュラー出演もあり若手俳優としての認知度及び知名度は高かった。川崎麻世と共に1970年代後期から、たのきん出現前のジャニーズ事務所低迷期を支え、度々雑誌グラビアを飾り、プロマイドの売れ行きも好調だった。
加納 竜(かのう りゅう、1956年3月26日 - )
広島県立可部高等学校在学中にテレビに出たことがきっかけで、1974年に高校卒業後すぐ上京、翌年夏に歌手としてデビュー。
松竹映画『愛と誠・完結編』に主演し、主題歌もヒットするが、その後は俳優として活躍する。
1976年、団時朗、草刈正雄に次ぐ、資生堂の男性化粧品MG5の三代目キャラクターに選出されCMなどに出演したことでも有名。
ボウリングが得意で、若い頃はプロボウラーテストを受験したこともある。
草川 祐馬(くさかわ ゆうま、1959年8月13日 - )
1973年、よみうりテレビの視聴者参加番組『プリン・キャッシーのテレビ!テレビ!!』内の人気コーナー・「パクパクコンテスト」(通称・パクコン)で、西城秀樹の物真似をして優勝。
これが切っ掛けとして、芸能界にスカウトされ、 1975年にポリドールからシングル「若者時代」で歌手デビュー。以降1978年までにシングルを8枚、アルバムを2枚リリースし、ワイルドな雰囲気が漂うアイドルとして高い人気を誇ると共に、同年開催された新宿音楽祭では銅賞に輝いた。
テレビドラマ『青春ド真中』、『ゆうひが丘の総理大臣』にレギュラー出演するなど、俳優としても人気を獲得しつつあったが、『ゆうひが丘~』出演中の1978年に結核を患い、長期の休業を余儀なくされる。
1981年の復帰後は、俳優としての活動が中心となり、テレビ・舞台などで精力的な活動をしている。
主な出演作としては『なにわの源蔵事件帳』、『都の風』、『フェイス』、『新・科捜研の女』などがある。
1972年(昭和47年)中学三年の時、「スター誕生!」の広島県予選で本選出場に残り、翌1973年(昭和48年)「スター誕生!」第7回のチャンピオンとなる。芸能事務所社長長良じゅんの自宅に1年間下宿。同年『イルカにのった少年』で東芝EMIより歌手デビューした。
デビュー曲の曲名を決めたのも長良で、鑑賞していた映画に出てきた『沈没船船首のイルカに乗った少年の像』より曲名が決まった。
『イルカにのった少年』は50万枚の大ヒット。童顔で細見のルックス、歌唱力で、一躍トップアイドルになる。1975年(昭和50年)の沖縄海洋博では、日本代表として歌唱した。10枚のシングルレコードを出し20歳で引退(芸能活動休止)。