このまとめは、物理的に東西ベルリンを隔てた「ベルリンの壁」にフォーカスしたもので主義や思想、当時の世界情勢などに触れるものではありませんのでご了承ください。
ベルリンの位置
東ドイツの中央やや東部に位置していたベルリン。
「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁はその境界線の一部」と思われがちでしたが、これは誤解。
「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁はその境界線の一部」と思われがちでしたが、これは誤解。
ベルリンの壁建設
1961年、ベルリンの壁建設が始まる
1961年8月13日0時、東ドイツ政府は東西ベルリン間68の道すべてを遮断して有刺鉄線による「壁」建設を開始。
6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了。2日後には石造りの壁の建設が開始されました。
6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了。2日後には石造りの壁の建設が開始されました。
ベルリンの壁は後に数度作り変えられ、1975年に完成した最終期のものはコンクリートで出来ていました。壁の総延長は実に155kmにも。
映像などを通じて広く知られている西ベルリンに面した壁に加え、東ドイツ側にもう一枚同様のコンクリート壁がありました。
つまり西ベルリンは二重の壁で囲まれていて、その2枚の壁の間は数十メートルの無人地帯となっていました。
映像などを通じて広く知られている西ベルリンに面した壁に加え、東ドイツ側にもう一枚同様のコンクリート壁がありました。
つまり西ベルリンは二重の壁で囲まれていて、その2枚の壁の間は数十メートルの無人地帯となっていました。
西ベルリンに在住していた人々は2,130,525人(1989年当時)
西ベルリンの広さは約500平方キロメートル(東京23区が600平方キロメートル)なので、人口200万人超が住むしても実に十分な広さがありました。
市の南西部には30平方キロメートルに及ぶ巨大な森林が横たわり、西には大きい湖も有し、また市のいたるとこに大きい公園やリクレーション菜園が散在しており、余裕のある自然環境は閉鎖された空間にあるとは言え市民生活に潤いを与えていたようです。
また「ベルリンの壁」の背景としては、西ベルリンが包囲されていたわけではなく、東ベルリンから西ベルリンに入ることを防ぐ目的でしたが、とはいえ幼いころはどうしても「西ベルリン」の人々がどのように往来しているのか気になったものです。
市の南西部には30平方キロメートルに及ぶ巨大な森林が横たわり、西には大きい湖も有し、また市のいたるとこに大きい公園やリクレーション菜園が散在しており、余裕のある自然環境は閉鎖された空間にあるとは言え市民生活に潤いを与えていたようです。
また「ベルリンの壁」の背景としては、西ベルリンが包囲されていたわけではなく、東ベルリンから西ベルリンに入ることを防ぐ目的でしたが、とはいえ幼いころはどうしても「西ベルリン」の人々がどのように往来しているのか気になったものです。
西ベルリン⇔西ドイツ領など、西側諸国への往来は確保されていた
空路について
西ベルリンを出入りする航空機の乗り入れは、西ベルリンを占領していたイギリスのダンエアー(後にブリティッシュ・エアウェイズに吸収)、アメリカのパンアメリカン航空とエア・ベルリン、フランスのエールフランスに限られ、西ドイツのルフトハンザドイツ航空は乗り入れていなかった。
陸路について
1972年 - 東西ドイツ政府間で結ばれた両ドイツ基本条約により、お互いを国と認め経済援助等を行うことで自由往来が認められた。これにより西ドイツ国民は西ドイツ政府による通行料と道路保守費の支払いにより東ドイツ内3本のアウトバーン24時間以内通行権を獲得し、東ドイツ国鉄による西ベルリンへの鉄道が開通。鉄道利用者の通過査証代は西ドイツ政府が負担した。
西ベルリンから東ベルリンは自由、その逆はダメだったようです
西ベルリンの人達は、東ベルリンに自由に入る事ができたのに、東ベルリンの人達は、西ベルリンに行く事は、極めて困難だったのが、ベルリンの壁崩壊までのドイツの状況でした。
西ドイツと西ベルリンの間には、空路、陸路ともに移動できるようになっていました。
陸路の場合、東ドイツ領内に入れないアウトバーンを使用したり、鉄道では東ドイツ内で乗り降りできない列車を使用しました。