『タイソンを倒した男』ジェームス"バスター"ダグラス
だが、1990年2月11日に東京ドームで行われた世界タイトル戦でマイク・タイソンに初の黒星をKOで付けた男と言えば、「ああ~!あの!」と多くの人が覚えているのではないか。
あのマイク・タイソンをKOしたジェームス・ダグラス
#OnThisDay in 1990 42-to-1 underdog James "Buster" Douglas KO'd @MikeTyson to win heavyweight title in Tokyo.
— PBC (@premierboxing) February 11, 2017
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タイソンに勝ったのにダグラスはなぜ最強と呼ばれることはなかったのか?
そして、『タイソンを倒した男』は現在どのように過ごしているのか?
世界のトップに上り詰めながら、脚光を浴びることの少なかった悲劇のチャンピオンについて紹介していく。
タイソンを倒した『ジェームス・ダグラス』とは何者だったのか?
ジェームス・ダグラス(James Douglas)
アメリカ合衆国オハイオ州コロンバス出身
愛称:バスター(破壊者)
身長 :192cm、リーチ:211cm
アメリカのボクシングは、ジョージ・フォアマン、マイク・タイソンなどのように貧しい黒人がギャングや貧困から抜け出すために拳ひとつで成り上がる、まさにアメリカンドリームの象徴であるとの印象が強い。
だが、そんな中にあってジェームス・ダグラスは生粋のボクシングエリートであった。
父ビリー・ダグラスはかつてミドル級の世界ランカーであり、その影響を受けて育ったジェームズがボクシングへの道を歩むのは当然のことだった。
父 ビリー・ダグラス(Billy Douglas)
アマでナショナルチャンピオンとなり、27歳でプロデビュー。
40歳まで現役を続けた名ボクサーであった。
後にトレーナー兼マネージャーとなり息子・ジェームスを支え続けた。
ジェームス・ダグラスのデビューからタイソン戦まで
わずかな敗戦を経験しながらも、順調にランキングを上げていったダグラスにチャンスが訪れる。
1987年5月30日、空位となったIBF世界ヘビー級王座をかけてトニー・タッカーと戦うことになった。
ジェームス・ダグラス vs トニー・タッカー (ハイライト)
試合内容
そして、迎えた10R。タッカーのストレートをアゴに受けたダグラスは動きが止まる。
一方的に攻められ滅多打ちにあった姿を見たレフェリーは試合を止めた。
ダグラスにとっての初の世界挑戦
ベルトを獲得したタッカーはそのわずか2ヶ月後の1987年8月1日、IBF世界王者としてWBA/WBC世界王者、マイク・タイソンとヘビー級史上初となる3団体世界王座統一戦に臨んだ。
マイク・タイソン圧倒的有利との前評判を覆し、196cmの長身とアマチュア仕込みのテクニックで善戦。
タイソンの剛腕パンチを巧みに躱しながら、時折右腕を回して挑発するなど観客を楽しませる見せ場も作り12Rまで粘ったが、判定0-3で敗れた。
3団体の統一チャンピオンとなったマイク・タイソンの栄光を横目に、ダグラスは再び世界挑戦のチャンスを手に入れる為、勝利を積み重ねていく。
1990年2月11日、東京ドームで実現したマイク・タイソン対ジェームス・ダグラス
当時のタイソンは23歳。
10度の世界戦を含み37戦全勝(33KO)という完璧のレコードを誇っていた。
対するダグラスは既に29歳。戦績は35戦29勝(19KO)4敗1分1無効試合であり、日本では全くと言っていいほど無名なボクサーであった。
タイソンがスパーリングでダウンしたことがスポーツ紙などで報じられたものの、ファンの興味はタイソンが、ダグラスを何ラウンド、もしくは何秒でKOするかという一点に絞られていた。
アメリカでの勝敗オッズも成立せず、試合直前にはじき出されたオッズはなんと42対1であったという。
なお、この試合は日本で最も観客動員数が多いボクシング世界戦となった。
(5万1,600人)