日野原重明さん亡くなる
告別式は7月29日。
経歴
日野原さんは1911年山口県生まれ。
1932年に京都帝国大学医学部に現役で合格、結核にかかり休学することもありましたが1937年に卒業。
京都帝国大学医学部三内科副手、北野病院勤務、京都病院(現在の国立病院機構京都医療センター)勤務、京都帝国大学大学院博士課程などを経て1941年に聖路加国際病院に内科医となりました。
1932年に京都帝国大学医学部に現役で合格、結核にかかり休学することもありましたが1937年に卒業。
京都帝国大学医学部三内科副手、北野病院勤務、京都病院(現在の国立病院機構京都医療センター)勤務、京都帝国大学大学院博士課程などを経て1941年に聖路加国際病院に内科医となりました。
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院長として
1992年には聖路加国際病院の院長に就任。
同年、広いロビーなどを備えた新病棟を建設。
この新病棟の広さは過剰ではないかという批判もありましたが、災害などで多くの被災者が出てしまった時でも機能できるという特徴がありました。
これは日野原さんの戦争、東京大空襲といった体験から来た構想でしたが、1995年に起きた地下鉄サリン事件の際に活躍。
通常の外来を休診にして被害者を受け入れる、という日野原さんの判断もあり犠牲者は最小限に抑えることができたとされています。
このことは「プロジェクトX~挑戦者たち~」などの番組でも大きくとりあげられました。
同年、広いロビーなどを備えた新病棟を建設。
この新病棟の広さは過剰ではないかという批判もありましたが、災害などで多くの被災者が出てしまった時でも機能できるという特徴がありました。
これは日野原さんの戦争、東京大空襲といった体験から来た構想でしたが、1995年に起きた地下鉄サリン事件の際に活躍。
通常の外来を休診にして被害者を受け入れる、という日野原さんの判断もあり犠牲者は最小限に抑えることができたとされています。
このことは「プロジェクトX~挑戦者たち~」などの番組でも大きくとりあげられました。
戦争の経験から
日野原さんは父母がキリスト教徒であり、自身も受洗を経験していました。
戦争の際には聖路加国際病院の改名するよう言われ、取り調べ、監視、十字架の切り取りなどもされたとのことです。
それらの経験もあって著書では命そして平和の大切さを重視しており、憎しみや苦しみをコントロールすること、許すことの勇気をもつこと、そのためにも《知る》ということを大事にするようにということが書かれています。
そしてこれらのことは《いのちの授業》にもつながっていきます。
戦争の際には聖路加国際病院の改名するよう言われ、取り調べ、監視、十字架の切り取りなどもされたとのことです。
それらの経験もあって著書では命そして平和の大切さを重視しており、憎しみや苦しみをコントロールすること、許すことの勇気をもつこと、そのためにも《知る》ということを大事にするようにということが書かれています。
そしてこれらのことは《いのちの授業》にもつながっていきます。
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いのちの授業
日野原さんは各地の小学校で「いのちの授業」を行っており、年齢と時間の話から始め、自身の経験も踏まえ生徒たちに様々なことを教えていらっしゃいました。
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予防と検査と習慣の重視
日野原さんは1954年に人間ドッグの施設を整え、従来《成人病》と呼ばれていた一群の病気の名称を《生活習慣病》として広めるなどしました。
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医師として患者に、社会人として社会に、大人として子供に誠実であり真剣であった日野原さんのご冥福をお祈り申しあげます。
日野原重明・聖路加国際病院理事長(関西学院中学部出身)インタビュー
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