「横浜フリューゲルス消滅」合併発表後、一度も負けずに天皇杯優勝!同時に解散となりました・・・。
2016年11月25日 更新

「横浜フリューゲルス消滅」合併発表後、一度も負けずに天皇杯優勝!同時に解散となりました・・・。

「横浜フリューゲルス消滅」。1998年秋、衝撃的なニュースが日本中を駆け巡りましたね。合併発表から、天皇杯決勝までの快進撃は今も記憶に強く残っています。

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1999年の「横浜フリューゲルス」消滅

かつて、Jリーグに横浜フリューゲルスという非常に強いチームがあったことを、覚えているサッカーファンも多いことでしょう。
1999年元旦、チームカラーと同じ真っ青に染まった空の下で、第78回天皇杯の優勝を飾り、日本一のまま消滅した伝説のクラブです。
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横浜フリューゲルスの選手、スタッフの集合写真
1998年10月29日、マスコミにすっぱ抜かれる形で横浜マリノスへの吸収合併が突然発覚する。

当事者である両チームだけでなく多くのチームサポーターも合併反対の声を上げ、チームメンバーは合併は誤りである事を照明しようと試合に勝ち続けたが、結局合併の流れを止める事が出来ず12月2日に調印が行われこのシーズンを以てチームが事実上消滅することになった。
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フリューゲルスの消滅を伝えるスポーツ報知

負ければ即消滅だった天皇杯

吸収合併が発覚した後、強いチームであることを証明しようと、リーグ戦で一度も負けることなく勝ち続けた横浜フリューゲルス。そして、合併劇が収まらない中、第78回天皇杯が開幕します。
リーグ戦終了後の第3回戦から参戦するフリューゲルスは、負ければ敗退のノックアウト方式の大会で、負ければチーム消滅という状況の中での戦いとなりました。

準々決勝でジュビロ磐田、準決勝で鹿島アントラーズと対戦。当時、Jリーグの中で圧倒的な強さを持つクラブに勝利。そして、迎えた1999年元旦の決勝戦。
場所は国立競技場。奇しくも対戦相手は、1993年のJリーグ開幕戦と同じ清水エスパルスでした。

5万人ものサポーターが見守る最後の試合。前半13分にエスパルスに先制を許すも、前半終了間際にFW久保山由清選手(当時)が同点弾を挙げると、後半に入り72分にFW吉田孝行選手(当時)が勝ち越し点を挙げます。
そのまま試合は終了し、フリューゲルスは2-1で勝利。優勝カップを掲げて有終の美を飾りました。
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天皇杯優勝!喜びを爆発させる選手達

サポーターの反対運動

発表はファンだけではなく、主力選手の三浦淳宏と楢崎正剛などでさえ寝耳に水の話で、事前に運営側からの説明がなされたわけではなかった。

サポーターたちはチームを存続させる会を設立。クラブ消滅が勝手に決まっていたことや、合併する相手が同じ横浜を本拠地とするライバルチームの横浜マリノスであったことなどにより、特に反対する意見や非難が多かった。

こうした流れを受け、合併に反対する署名運動は、地元の横浜のみならず全国各地へと広がった。
フリューゲルスファンの川平慈英も消滅・合併に反発し、存続支援の意志を発表。

しかし、その願いはかなわず、12月2日の両クラブ合併の調印式を経て、翌年の2月1日に正式合併となった。チーム名はフリューゲルスの頭文字である「F」を加えた、「横浜F・マリノスとなった。
※チーム消滅の原因は、出資会社の経営不振でした。この騒動は企業スポーツのあり方を問う一つの事件となりました。

また、サポーターが横浜駅で署名運動をしていた際に、急きょフリューゲルスの選手も加わり活動した事がありました。事前許可を取っていなかった為に、途中で中止となりますが、短時間で1000名程の署名を集めました。
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横断幕に書かれたメッセージ 「フリューゲルスを助けて」

サポーターと出資側の話し合い

サポーターと全日空側とが「対面」した。話し合い自体は深夜まで行われていた。
サポーター側からは「合併の白紙撤回を求む」要求を。全日空側は「決まったことだから要求は飲めない」の逃げ。
この全日空の対応の「のらりくらり」に、サポーターも選手らも悩ませられ、憎悪を増幅させていくのである。

横浜フリューゲルスの概要

神奈川県横浜市を本拠地とするプロサッカークラブ。略称は横浜F。
前身は全日空サッカークラブ。

ホームスタジアムは横浜市三ツ沢公園球技場、横浜国際総合競技場。
同じ三ツ沢をホームとする横浜マリノスとの横浜ダービーも有名。
サポーターズソングは「Victory」。
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横浜フリューゲルス・マスコット 「とび丸」
Jリーグ開幕の1993年からアビスパ福岡がJリーグ昇格を果たす1995年までの間は長崎県・熊本県・鹿児島県を特別活動地域(≒準ホームタウン)としており、この三県での人気は撤退後でもアビスパを遥かに凌いでいた。

フリューゲルスに所属したことのある選手として、前園真聖、山口素弘、楢崎正剛、三浦淳宏、遠藤保仁、ジーニョ、サンパイオ、エドゥー、モネールなどが挙げられる。

日本代表監督にもなった加茂周が初代監督。彼の代名詞でもある「ゾーンプレス」を使った、コンパクトで展開の早いサッカーが特徴であった。1993年には天皇杯を制している。

「前所属」横浜フリューゲルス GK楢崎正剛

「試合前に配られるメンバー表の僕の名前の後ろに、『前所属・横浜フリューゲルス』とある。もし僕が移籍したら、あの名前がなくなっちゃうんですよ。それがつらい」
※現在、現役を続ける元フリューゲルスの選手では、「前所属」がフリューゲルスの選手は楢崎だけです。
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チーム消滅決定後、うつむき加減でチームフラッグを持つ楢崎。
この後、日本代表の正ゴールキーパーを務める事になります。

彼のフリューゲルス愛は本物です!
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