名誉名人 土居市太郎
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少年期の病気によって左脚が不自由になるも、以降将棋に専念して名人の地位を幾度か覗きこんだ男、土居市太郎。その生涯は1887年から1973年までであり、将棋的にひとつ下の世代となる木村義雄、木村の後継者となった大山康晴、その大山を破った中原誠の名人誕生時期とかぶっている。
彼は弟子が多い人で、門下には近代将棋の序盤研究家金子金五郎、日本将棋連盟4代目会長萩原淳、格調の名棋士加藤博二などが存在している。
彼らの弟弟子にして土居の最後の弟子。
それが大内延介九段である。
彼は弟子が多い人で、門下には近代将棋の序盤研究家金子金五郎、日本将棋連盟4代目会長萩原淳、格調の名棋士加藤博二などが存在している。
彼らの弟弟子にして土居の最後の弟子。
それが大内延介九段である。
大内延介の登場
大内は1941年生まれ。54年に6級で奨励会に入ると4年かけて初段に昇り、さらに5年をかけてプロ入りしたのが1963年のこと。この時21歳。当時としては平均的な年齢だったのではなかろうか。米長邦雄永世棋聖もプロ入りは1963年で、19歳でのプロ入りである。
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大内は登場早々好成績を上げ、C級2組とC級1組をそれぞれ1年でかけ抜ける。B級2組には5年ほど居座るが、67年には第8期王位戦で大山康晴王位に挑戦した。結果は1勝4敗で奪取ならずであったが、六段でタイトル挑戦というのは当時前人未踏の記録であった。
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実はそれがやりたかっただけなんだよと言わんばかりにB級1組にあがったのが1970年のこと。鬼の棲家を2年で突破し72年にはA級に昇級すると同時に八段に昇進している。
名人 対 総裁
この頃の順位戦には誰がいたか。まずタイトルホルダーとして大山康晴十段、内藤國雄棋聖、珍しい例ではあるが塚田正夫永世九段がいる。
他に米長邦雄八段、加藤一二三九段、升田幸三九段……この時のA級棋士は11人いたが、うち5人が名人経験者か後に名人になる人である。そうでない人物でも内藤棋聖と二上達也九段など棋史に残る強豪ばかりである。ひとつの黄金時代であったろう。
そういった強豪たちでも大内をB級に送り返すことはなかなかできなかった。なぜか。彼が類稀なる戦術家であったからである。その頃すでに大内は、穴熊党総裁としての迫力をもっていた。
穴熊とは
他に米長邦雄八段、加藤一二三九段、升田幸三九段……この時のA級棋士は11人いたが、うち5人が名人経験者か後に名人になる人である。そうでない人物でも内藤棋聖と二上達也九段など棋史に残る強豪ばかりである。ひとつの黄金時代であったろう。
そういった強豪たちでも大内をB級に送り返すことはなかなかできなかった。なぜか。彼が類稀なる戦術家であったからである。その頃すでに大内は、穴熊党総裁としての迫力をもっていた。
穴熊とは
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これである
プロの将棋を眺めていると定期的に見かける戦法である。現代だと広瀬章人八段が2010年あたりに振飛車穴熊で名を馳せ《振り穴王子》というあだ名がついていた。
穴熊には居飛車穴熊と振飛車穴熊の大きく2種類があるが、大内が得意としていたのは広瀬八段と同じ振飛車穴熊であった。というより居飛車穴熊が居飛車穴熊として認知されるためには当時奨励会段位者であった田中寅彦の登場を待たなければならない。
つまりある意味で大内は元祖穴熊遣いだったのである。
この戦法は後に大流行し、現代将棋の代名詞でなっていくほどなのだから登場期にぶちあたった棋士はたまったものではなかっただろう。姿焼きになって負ける姿を醜いと評する人も多く、この戦法を採用ししかも結果をだすところに大内の怖さがある。
そのせいだろうか、大内延介の将棋は覇道であるという評価もある。
大内は順位戦で8勝2敗の成績をあげ1975年の第34期名人戦において挑戦者として登場する。
相手は自然流と称され王道の将棋をゆく中原誠名人。王道対覇道の戦いである。
しかしそもそも穴熊が有効な戦術であるとすれば木村升田大山といった前時代に評価されても良いようなものであり、そこに登場していなかったということは大したことはないのではないかという声があったり、いやいや内藤國雄の空中殺法の例もあるし将棋にはまだまだ発見されていない強い戦法があるこれはどう転ぶかわからないぞという声もあった。
双方の声を肯定するようにして初戦は大内八段が勝ちしかし名人が取返しそのまま連勝してリードするも意趣返しのように大内も2連勝、カド番に追い込まれた名人であるが先手番で1つ勝ちを取り戻しいよいよ迎えた第7局。
優勢をつくりあげた大内の耳にふと届くものがある。
あれは宴の声ではないか?
そういえば近くにビアガーデンがあったな。(会場は東京都広尾の羽澤ガーデン)
名人になったらさぞやうまい酒が飲めるのだろう。
大内八段は手順をまちがえて勝ちを逃した。次の対局は中原の勝ち。結果は中原名人の防衛だった。
痛恨の不覚(?)である。大内は憂さ晴らしにとばかりにタイトル戦に昇格された第1期棋王戦において勝ちに勝ち《初代棋王》の座についた。
木村名人、大山名人、中原名人、森内名人、羽生名人。
永世位を獲得するほどに、あるいは数個は獲得できるほどに名人を保持していた人物がいる。
保持の裏には挑み敗れていったものたちの存在がある。
あるいは実力以外の要素が関係して名人就位を逃したという人物もいる。
そういう部分をよく見ていたのだろう、後年米長は名人は獲得するものではなく与えられるものであるという発言を残している。
余談だが第1期棋王戦第1局、内藤九段対大内八段の戦いの舞台はハワイのホノルルであり、これが将棋の公式戦としては初の海外対局であった。
プロの将棋を眺めていると定期的に見かける戦法である。現代だと広瀬章人八段が2010年あたりに振飛車穴熊で名を馳せ《振り穴王子》というあだ名がついていた。
穴熊には居飛車穴熊と振飛車穴熊の大きく2種類があるが、大内が得意としていたのは広瀬八段と同じ振飛車穴熊であった。というより居飛車穴熊が居飛車穴熊として認知されるためには当時奨励会段位者であった田中寅彦の登場を待たなければならない。
つまりある意味で大内は元祖穴熊遣いだったのである。
この戦法は後に大流行し、現代将棋の代名詞でなっていくほどなのだから登場期にぶちあたった棋士はたまったものではなかっただろう。姿焼きになって負ける姿を醜いと評する人も多く、この戦法を採用ししかも結果をだすところに大内の怖さがある。
そのせいだろうか、大内延介の将棋は覇道であるという評価もある。
大内は順位戦で8勝2敗の成績をあげ1975年の第34期名人戦において挑戦者として登場する。
相手は自然流と称され王道の将棋をゆく中原誠名人。王道対覇道の戦いである。
しかしそもそも穴熊が有効な戦術であるとすれば木村升田大山といった前時代に評価されても良いようなものであり、そこに登場していなかったということは大したことはないのではないかという声があったり、いやいや内藤國雄の空中殺法の例もあるし将棋にはまだまだ発見されていない強い戦法があるこれはどう転ぶかわからないぞという声もあった。
双方の声を肯定するようにして初戦は大内八段が勝ちしかし名人が取返しそのまま連勝してリードするも意趣返しのように大内も2連勝、カド番に追い込まれた名人であるが先手番で1つ勝ちを取り戻しいよいよ迎えた第7局。
優勢をつくりあげた大内の耳にふと届くものがある。
あれは宴の声ではないか?
そういえば近くにビアガーデンがあったな。(会場は東京都広尾の羽澤ガーデン)
名人になったらさぞやうまい酒が飲めるのだろう。
大内八段は手順をまちがえて勝ちを逃した。次の対局は中原の勝ち。結果は中原名人の防衛だった。
痛恨の不覚(?)である。大内は憂さ晴らしにとばかりにタイトル戦に昇格された第1期棋王戦において勝ちに勝ち《初代棋王》の座についた。
木村名人、大山名人、中原名人、森内名人、羽生名人。
永世位を獲得するほどに、あるいは数個は獲得できるほどに名人を保持していた人物がいる。
保持の裏には挑み敗れていったものたちの存在がある。
あるいは実力以外の要素が関係して名人就位を逃したという人物もいる。
そういう部分をよく見ていたのだろう、後年米長は名人は獲得するものではなく与えられるものであるという発言を残している。
余談だが第1期棋王戦第1局、内藤九段対大内八段の戦いの舞台はハワイのホノルルであり、これが将棋の公式戦としては初の海外対局であった。
大内一門
大内九段は運営や弟子の育成でも成果をあげている。
代表的な存在をあげていくと、
代表的な存在をあげていくと、
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工学博士、北陸先端科学技術大学院大学教授も兼ねる飯田弘之七段
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55年組、《塚田スペシャル》の塚田泰明
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