2017年4月11日 更新
71年から89年【富士グラチャン】(富士グランドチャンピオンレース)って覚えてますか?
1971年から1989年代まで富士サーキット場で開催された富士グランドチャンピオンレースを懐かしく思いまとめてみました。
富士グランドチャンピオンレースとは?
富士スピードウェイ
富士スピードウェイコーナリング
コース
富士スピードウェイコース
グラチャン仕様車
ケンメリ 2Dr
スタート
1960年代に国内最大の4輪レースだった「日本グランプリ」が1970年に中止となった(日産自動車、トヨタ自動車の不参加が大きな要因と言われる)。会場であった富士スピードウェイは、日本グランプリに代わる大レースとして「富士グランチャンピオンレース(富士GC)」を企画。当時、日本の4輪レース統括団体である日本自動車連盟(JAF)は、1971年以降日本グランプリをフォーミュラカーレースとして開催するなどフォーミュラ重視の方針を打ち出していたが、富士スピードウェイ側はこれに反意を示していたと言われる。そのため富士GCは2座席レーシングカー(レース専用マシン)やGTカー(一般市販車改造マシン)のレースになったと言われている。
富士GCは1971年(昭和46年)4月25日に第1戦が開催された。年間6レース前後が開催され、各レースの成績(ポイント)を総合して年間チャンピオンが決まる形式だった。全戦、富士スピードウェイが会場だった(1987年まで)。
こんな車がたくさんありましたよね
スカイライン
ハコスカ
一般公道車をチューンしてのレースが人気の1つだったかもしれません。
1970年以前の日本グランプリは自動車メーカーのワークス・チーム(ワークスマシン)主体のレースだったが、富士GCはドライバーが中心(主役)のレースという路線を打ち出したことで、当初は若手のプライベート(個人出場)ドライバーが主体となり、レース界の世代交代が進んだとも言われる。後に自動車メーカーの契約ドライバーなども参戦するようになった。
富士GCには「エンジンは市販されているものを使用すること」という意味合いの規定が存在し
、自動車メーカーが限定供給するワークスエンジンの使用は禁止されていた
当初の富士GCは、排気量無制限のグループ7(レース専用のプロトタイプレーシングカー)からグループ4のGTマシン(市販車改造車)までの混走だった1972年からは排気量2,000ccのレーシングスポーツカーに選手権が掛けられた。以後は2,000ccの2座席(2シーター)レーシングスポーツカー限定のレースに変化していった。
セリカ
セリカ LB 2000GT RA-25 旧車會 グラチャン 街道レーサー
1979年からシングルシーター(1座席)型レーシングスポーツカーの参戦が可能になった当初、各チームは従来の2シーター車をシングルシーターに改造していたが、1980年以降はF2のシャシーにスポーツカーのカウルを被せ、富士GC用マシンに転用する手法が主流になった。
1987年より排気量制限が3,000ccに変更
1988年にはスポーツランドSUGOと鈴鹿サーキットでもレースが開催され、3箇所を舞台とすることになり、名称が「グランチャンピオン・シリーズ」に変更された。
1989年には、JAFによって全日本選手権が初めて掛けられただが皮肉なことに他カテゴリー(全日本F3000選手権、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権、全日本ツーリングカー選手権等)の人気が高まったことで観客数の減少傾向が顕著になり、1989年のシーズンをもって長い歴史に幕を閉じた。
フェアレディZ
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1970年代から1980年代にかけて、全日本F2選手権などと並ぶ日本のトップカテゴリーレースと目され、高い人気を集めたが、1989年いっぱいで休止された。
2002年(平成14年)から2006年(平成18年)まで「GC-21」の名称でシリーズが復活した。
「富士グランドチャンピオンレース」という表記をされることがあるが、誤りである。