via www.ne.jp
1971年(昭和46年)から数年間のシリーズ初期には、マクラーレンM12、ポルシェ・908、ポルシェ・917、ローラT160などの大排気量レーシングマシンと、フェアレディ240ZGなどの市販車改造マシンが混走していた。
2,000cc限定以降はマーチやシェブロン のシャーシを中心に、ローラ、GRD、アルピーヌといったマシンが加わった。また、いすゞ、ベルコ、シグマ(現・サード)、マナ、紫電、NOVAといった国産マシンも参戦したが、NOVA53Sが1978年のチャンピオンマシンとなった以外、目立った成績を挙げることはできなかった。
2,000cc限定以降はマーチやシェブロン のシャーシを中心に、ローラ、GRD、アルピーヌといったマシンが加わった。また、いすゞ、ベルコ、シグマ(現・サード)、マナ、紫電、NOVAといった国産マシンも参戦したが、NOVA53Sが1978年のチャンピオンマシンとなった以外、目立った成績を挙げることはできなかった。
BMW
1979年にシングルシーターが認められてからは、ムーンクラフト製の通称“MCS(ムーンクラフトスペシャル)カウル”を装着したマシンが主流になった。シャーシは当初2座席スポーツカーを改造したものだったが、1980年にマーチ792シャーシを使用したマシン(ロイスRM-1)が登場し好成績を挙げて以降、F2用シャーシが使われるようになった
最後期にはF3000用マシン(フォーミュラカー)をベースに富士GC専用に作られたシャーシに加え、マッドハウス、セルモ、R&D、OKAMOTO SPL.などの国産シャーシも登場。ムーンクラフト以外のカウルも多種現れた。
エンジンは最初期にはシボレーV8やコスワースDFVを搭載したマシンが参戦したが、2,000cc時代に移行してからはBMW M12/6エンジンの活躍が目立った
最後期にはF3000用マシン(フォーミュラカー)をベースに富士GC専用に作られたシャーシに加え、マッドハウス、セルモ、R&D、OKAMOTO SPL.などの国産シャーシも登場。ムーンクラフト以外のカウルも多種現れた。
エンジンは最初期にはシボレーV8やコスワースDFVを搭載したマシンが参戦したが、2,000cc時代に移行してからはBMW M12/6エンジンの活躍が目立った
ベンツ
via syachiraku.com
ハートBDA、三菱R39B、マツダロータリー13B、トヨタ18R-Gなどが使用された。特にマツダ13Bエンジンは1977年に初優勝を飾った後、対BMWエンジンの一番手として健闘し、一時は富士GC出場者の大半がマツダ13B搭載車だった時期もある。BMW対マツダ・ロータリーの時代が長く続いた後、1985年に登場したヤマハOX-66エンジンが大勢を占めた時期もある。1987年に3,000ccへ移行して以降の最後の3年間は、無限ホンダMF308と再びコスワースDFVが大勢を占めた。
ポルシェ
via car-moby.jp
メインレースに加え、ツーリングカーによるマイナーツーリング、シルエットフォーミュラによるスーパーシルエットなどのサポートレースが併催された。スカイラインGT-R対サバンナRX-3、BMW・M1対ニッサンターボ軍団、B110サニー対KP47スターレットなど数々の名勝負が繰り広げられた。
スカイライン
via rr.img.naver.jp
レイトンハウスのカラー
レイトンカラーも人気だった。
レイトンカラーも人気だった。
鈴鹿サーキットは富士GC人気にあやかって、1976年に独自でGCレース(年間3戦)を開催。富士GCの主催者はこれに激しく反発し、富士GCのレギュラードライバーに鈴鹿GCへの出場を暗に禁ずる通達を出す事態となった。このため鈴鹿サーキットは同年限りでGCレースの開催を中止し、富士との対抗上の必要から翌1977年より全日本F2000→全日本F2との併催の形で独自の「鈴鹿F2選手権」を発足させた。以上のように、1970年代〜1980年代の日本の4輪モータスポーツ界において、鈴鹿(およびJAF)はフォーミュラカー主体、富士はスポーツカー主体という、住み分け及び対立の構図があった。
日産シルビア
富士GCの人気が高く来場者が非常に多かったため、暴走族が示威行動としてレース会場周辺で集会や暴走行為を行い、社会問題に発展した。そのためポスターや入場券などに「不法改造車での入場をお断りいたします」との但し書きが付けられていた時期があった。そのためこの時期の違法改造車は「グラチャン仕様」とも俗称されており、青島文化教材社の発売するプラモデル・ミニカーではシリーズ名でこの名前が使われている。またこの状況を理由の一つとして、1980年代前半には富士スピードウェイの廃止が論議された。
ライモン 2022/2/28 04:05
オイルショックによるメーカー主導の日本グランプリが開催出来なくなった中生み出されたグラチャンは1989年のバブル期で再びモータースポーツが人気になるまで国内モータースポーツ人気を支えた橋渡し役でしたね。盛り上げる為のプロモーションとかは現代のスーパーGTにも引き継がれており今の隆盛はグラチャンあってこそではないでしょうか。