3月17~18日、私は群馬県高崎市に居りました。両日にわたり開催された「2018年 女子レスリングワールドカップ高崎大会 国別対抗戦」の観戦に。女性たちの美しい強さに圧倒された2日間でした。
さて、その高崎。高崎駅近くに横浜銀行高崎支店(群馬県高崎市連雀町8-1)があります。群馬県には高崎の他に前橋市と桐生市にも横浜銀行支店がありますが、「高崎に横浜銀行がある」というのがキモ。近代日本を支えた高崎~横浜コネタをご紹介します。
さて、その高崎。高崎駅近くに横浜銀行高崎支店(群馬県高崎市連雀町8-1)があります。群馬県には高崎の他に前橋市と桐生市にも横浜銀行支店がありますが、「高崎に横浜銀行がある」というのがキモ。近代日本を支えた高崎~横浜コネタをご紹介します。
群馬県に初めて出来た銀行が横浜銀行?
時は江戸末期、安政5 年(1858年)。徳川幕府はアメリカ、続けてイギリス、フランス、オランダ、ロシアとの間で日米修好通商条約を締結しました。日本史で「安政の5 か国条約」として教わっているかな、と思います。この条約により、日本の鎖国は終わりを告げると同時に、海外との貿易が本格化していくわけですが、この条約で大変化をしたのが神奈川湊の対岸で戸数約百戸の一寒村にすぎなかった横浜村。幕府がこの横浜に港を築き、開港したことから横浜の歴史がガラッと変わっていきます(開港は安政6年)。それまで一地域の村だった場所に日本、世界の商人がワサッと集結したのですから、そりゃエライことだったろうなあと思います。
熱い視線を集めた「生糸」
その中、海外から熱い視線を集めたのが生糸でした。その中、高崎市の茂木惣兵衛さん(文政10年(1827年)~明治27年(1894年))が頭角を現します。惣兵衛さんは上野国高崎(現群馬県高崎市)に、質商大黒屋茂木惣七の長男として生まれました。26歳に桐生の絹物商新井長兵衛の養嗣子となり、その後開港間もない横浜において生糸商人として頭角をあらわした人です。要するに、高崎の生糸を横浜で売ったわけで、ここで近代の高崎~横浜ルートが出来上がります。
で、なぜ横浜銀行が高崎にあるか、という話。
で、なぜ横浜銀行が高崎にあるか、という話。
現場の商人が作り、現場の商人が支えた銀行
開港して4年後の文久3年(1863年)あたりから、横浜にはセントラル銀行(インド)とかチャータード・マーカンタイル銀行(イギリス)、オリエンタル銀行(同)、香港上海銀行(香港)など海外の金融機関が横浜に進出してきます。貿易港なのだから当然っちゃ当然なのですが、日本側はそもそも銀行が無い…為替相場を海外が独占するという不利な環境下において商人たちには日本製の銀行が必要でした。
ということで、明治2年(1869年)、東京・横浜・京都・大阪・神戸・大津・新潟・敦賀の8 都市に、のちの商社と取引所の機能を兼ね備えた「通商会社」と、金融機関の機能を持つ「為替会社」が誕生します。横浜では横浜為替会社が生まれました。その株主構成をみると特権商人といわれる三井の持株比率は10%と低く、残りの大部分を惣兵衛さんや原善三郎さんなどの横浜商人が占めております。というか総員52 名の株主中、生糸売込商が半数の26 名に達しています。他の為替会社では、特権商人の持株比率が4~6割と高かったそうなので、当時の横浜がいかに生糸職人で成り立っていたかがうかがい知れます。横浜為替会社の総頭取は三井八郎右衛門さんですが、実際の経営は惣兵衛さんや原さんが執行しておりました。そう、現場の商人が作り、現場の商人が支えた銀行だったのです。(参照:創立90周年記念誌「地域とともに141年 横浜銀行の歩み」)
ということで、明治2年(1869年)、東京・横浜・京都・大阪・神戸・大津・新潟・敦賀の8 都市に、のちの商社と取引所の機能を兼ね備えた「通商会社」と、金融機関の機能を持つ「為替会社」が誕生します。横浜では横浜為替会社が生まれました。その株主構成をみると特権商人といわれる三井の持株比率は10%と低く、残りの大部分を惣兵衛さんや原善三郎さんなどの横浜商人が占めております。というか総員52 名の株主中、生糸売込商が半数の26 名に達しています。他の為替会社では、特権商人の持株比率が4~6割と高かったそうなので、当時の横浜がいかに生糸職人で成り立っていたかがうかがい知れます。横浜為替会社の総頭取は三井八郎右衛門さんですが、実際の経営は惣兵衛さんや原さんが執行しておりました。そう、現場の商人が作り、現場の商人が支えた銀行だったのです。(参照:創立90周年記念誌「地域とともに141年 横浜銀行の歩み」)
高崎の生糸商人たちが尽力した銀行
その後の明治5年(1872年)、政府は「国立銀行条例」を制定。横浜商人の皆様は政府に『横浜為替会社を国立銀行に移行したいな~』と申し込み、明治7年(1874年)に第二国立銀行に変身しました。この第二国立銀行の発起人が高崎な惣兵衛さんや大間々町(現・みどり市)出身の吉田幸兵衛さんなどの群馬県出身の横浜商人でした。ざっくりいうと高崎の生糸商人さんたちです。そんなわけで、高崎(明治8年(1875年))、前橋(明治9年(1876年))に第二国立銀行の支店が生まれまして、実は群馬県初の銀行はこの高崎支店だったりします。
その後、横浜正金銀行や日本銀行などの整備の進展により、第二国立銀行は横浜の銀行としての道を歩み、第二銀行を経て昭和3年(1928年)に横浜興信銀行と合同し、今日の横浜銀行になります。なので、高崎や前橋の支店もそのまま横浜銀行の支店として今も生活に溶け込んでいるのです。
高崎市に行かれましたら、良かったら八幡町の八幡八幡宮へぜひ。同宮の唐銅燈籠は惣兵衛さんがメインとなって生糸商人などによって奉納されたモノです。個人的には近代日本を支えた高崎らしい名所だなあと思います。
その後、横浜正金銀行や日本銀行などの整備の進展により、第二国立銀行は横浜の銀行としての道を歩み、第二銀行を経て昭和3年(1928年)に横浜興信銀行と合同し、今日の横浜銀行になります。なので、高崎や前橋の支店もそのまま横浜銀行の支店として今も生活に溶け込んでいるのです。
高崎市に行かれましたら、良かったら八幡町の八幡八幡宮へぜひ。同宮の唐銅燈籠は惣兵衛さんがメインとなって生糸商人などによって奉納されたモノです。個人的には近代日本を支えた高崎らしい名所だなあと思います。
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