鬼を2つご紹介します
このコラムは「鬼ごっこ協会鬼文化コラム」より抜粋・編集したものです。
現在の元号「令和」といえば、その典拠は『万葉集』。ですから、同時期の古典『風土記』に登場する鬼を2つご紹介します。
まず『出雲国風土記』の大原郡の記述より。こちらに登場する鬼は「日本最古の鬼」とも言われますが、個人的には「人を食べる鬼」「一つ目の鬼」の初出と捉えております。
その内容は
その内容は
「古老の言い伝えでは、昔、ある人がここで山田を耕作して守っておりました。その時、目一つの鬼(もの)が来て、耕作していた人の男(息子)を食べてしまいました。その男の父母は竹藪の中に隠れましたが、竹の葉がかすかに揺れ動いてしまいました。すると、目一つの鬼に食われている息子さんは「動動(あよ、あよ=揺れている、揺れている)」
と言いました。だから阿欲(あよ)の郷と名付けられ、後に神亀3年(726年)に郷名を「阿用」と改めたそうです」というもの。
「目一つの鬼」の解釈は諸説ありますが、鍛造する際の炎を見続けて片目を失明してしまう=一つ目になる事例があったことから、出雲に居たであろう鍛冶を担う集団を指摘する声があります。であるならば神としての鬼ではなく、人を指しているのでしょうが、だとすると尚更に、人間を食べる記述はちょっと恐ろしい・・・。
「あよあよ」と動いた理由についてもハッキリしておりません。一説には父母に危険を知らせたとも、あるいは、自分を置いて逃げた父母への嘆きとも。何せ原文には「動々」としか書かれておりませんので、息子さんのお気持ちは想像するしかありません。いずれにせよ、恐ろしい・・・。
「あよあよ」と動いた理由についてもハッキリしておりません。一説には父母に危険を知らせたとも、あるいは、自分を置いて逃げた父母への嘆きとも。何せ原文には「動々」としか書かれておりませんので、息子さんのお気持ちは想像するしかありません。いずれにせよ、恐ろしい・・・。
もうひとつは『常陸国風土記』の久慈郡の記述に登場します。こちらには
「昔、魍魎(もの)有り。萃集(あつま)りて、鏡を翫(もてあそ)び見る則(すなは)ち、自(おのづか)らに去る。俗に云はく、「疾き鬼(もの)も鏡に面(むか)へば、自らに滅ぶ」といふ」
という記述があります。こちらの文章の「鏡」については、中国の山西省辺りでは今も照魔鏡の縁起物が売られているということで、大陸由来の逸話の感があります。
と、前回から文献上に登場する鬼・隠を紹介してまいりましたが、そもそも単語として初めて登場するのはいつかというと、『三国志』「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条、通称「魏志倭人伝」です。「なにそれ?」と思われる方もいらっしゃるかもですが、日本史の授業で「卑弥呼」の存在は教わったことと思います。彼女のことを記した中国の書物です。
卑弥呼による鬼道
卑弥呼は「魏志倭人伝」に記されている倭国(邪馬台国)の女王です。ここには魏の皇帝・曹叡から卑弥呼に対し、景初2年(238年)または同3年(239年)に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印が与えられたことなどが記されております。
今回注目したいのは以下の記述。
今回注目したいのは以下の記述。
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國」
ウィキペディアによると
「倭国には元々は男王が置かれていたが、国家成立から70〜80年を経たころ(漢の霊帝の光和年間)倭国乱れ、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立し王とした。その名は卑弥呼である。女王は鬼道(きどう)によって人心を掌握し、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した」
そう。女王卑弥呼が行っていたこと、それが「鬼道」、鬼なのです。
「鬼道」とは何か?
実は、明確な答えは定まっておりません。
有力な説として、卑弥呼は巫女(シャーマン)であり、呪術的な行為を行うことで国家統治を担ったというもの。その呪術的な部分を「鬼道」と表現しているのではないか?というものです。また、弟が政治をサポートしていることから、邪馬台国の政治システムは女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治だったのではないか?と言われております。
有力な説として、卑弥呼は巫女(シャーマン)であり、呪術的な行為を行うことで国家統治を担ったというもの。その呪術的な部分を「鬼道」と表現しているのではないか?というものです。また、弟が政治をサポートしていることから、邪馬台国の政治システムは女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治だったのではないか?と言われております。