山口 淑子(やまぐち よしこ、1920年(大正9年)2月12日 - 2014年(平成26年)9月7日)
山口 淑子(やまぐち よしこ、1920年(大正9年)2月12日 - 2014年(平成26年)9月7日)
山口 淑子(やまぐち よしこ、1920年(大正9年)2月12日 - 2014年(平成26年)9月7日)は、日本の歌手、女優、政治家である。戸籍名:大鷹淑子(旧姓:山口)。さまざまな名前で活動し、戦前の中国(中華民国)と満州国・日本・戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン)、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではシャーリー・ヤマグチの名で映画、歌などで活躍した。
日本の敗戦を上海で迎えた彼女は、中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。
帰国後は、旧姓(当時の本名)・山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をしたが、1958年(昭和33年)に結婚のため芸能界を退いた。
そして1969年(昭和44年)にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年(昭和49年)3月まで務めた。
後に1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間は、参議院議員をも務めた。2006年に日本チャップリン協会(大野裕之会長)の名誉顧問に就いた。
2014年9月7日、心不全のため東京都千代田区一番町の自宅で死去した。満94歳。叙正四位。
出典 山口淑子 - Wikipedia
日本の敗戦を上海で迎えた彼女は、中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。
帰国後は、旧姓(当時の本名)・山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をしたが、1958年(昭和33年)に結婚のため芸能界を退いた。
そして1969年(昭和44年)にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年(昭和49年)3月まで務めた。
後に1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間は、参議院議員をも務めた。2006年に日本チャップリン協会(大野裕之会長)の名誉顧問に就いた。
2014年9月7日、心不全のため東京都千代田区一番町の自宅で死去した。満94歳。叙正四位。
出典 山口淑子 - Wikipedia
via cinema.ne.jp
明日 待子(あした まつこ、1920年3月1日 - ) 現在でいうところのアイドル的な人気女優
明日 待子(あした まつこ、1920年3月1日 - ) 現在でいうところのアイドル的な人気女優
明日 待子(あした まつこ、1920年3月1日 - )は、日本の女優、日本舞踊家。昭和初期~戦後にかけてムーランルージュ新宿座の看板スターの一人で、元祖・ライブアイドルの一人とされている。岩手県釜石市出身。本名は須貝 とし子(すがい としこ)。現在は日本舞踊家で正統五條流宗家家元・五條 珠淑(ごじょう たまとし)を名乗っている。
1920年(大正9年)、岩手県釜石市で小野寺とし子として生まれる。尺八を嗜む警察署長の父と義太夫を嗜む母の影響があって芸事に関心を持ち、女優を志すようになる。 13歳のとき釜石市において地方巡業中だったムーランルージュの俳優・有馬是馬にスカウトされ、即入団が決定したという。
1933年(昭和8年)上京。劇場設立者の佐々木千里宅に居候する。入団当時の愛称は「チィ」。屈託のない笑顔、愛らしいルックスで人気を博し、ムーランルージュ新宿座の看板女優として活躍。
現役時代は雑誌のグラビアや初代カルピスCMガール、ライオン、キッコーマンなどのポスターに起用されるなど一大ブームを巻き起こし、現在でいうところのアイドル的人気であった。
また、当時開業して数年の小田急ロマンスカーはムーランルージュ新宿座に「小田急行進曲」と「小田急音頭」の製作を依頼しており、沿線案内の吹き込みには看板スターの待子が担当していた。
1920年(大正9年)、岩手県釜石市で小野寺とし子として生まれる。尺八を嗜む警察署長の父と義太夫を嗜む母の影響があって芸事に関心を持ち、女優を志すようになる。 13歳のとき釜石市において地方巡業中だったムーランルージュの俳優・有馬是馬にスカウトされ、即入団が決定したという。
1933年(昭和8年)上京。劇場設立者の佐々木千里宅に居候する。入団当時の愛称は「チィ」。屈託のない笑顔、愛らしいルックスで人気を博し、ムーランルージュ新宿座の看板女優として活躍。
現役時代は雑誌のグラビアや初代カルピスCMガール、ライオン、キッコーマンなどのポスターに起用されるなど一大ブームを巻き起こし、現在でいうところのアイドル的人気であった。
また、当時開業して数年の小田急ロマンスカーはムーランルージュ新宿座に「小田急行進曲」と「小田急音頭」の製作を依頼しており、沿線案内の吹き込みには看板スターの待子が担当していた。
via pbs.twimg.com
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原 節子(はら せつこ、1920年6月17日 - 2015年9月5日)
原 節子(はら せつこ、1920年6月17日 - 2015年9月5日)
原 節子(はら せつこ、1920年6月17日 - 2015年9月5日)は、日本の女優。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』、『東京物語』などがある。
1963年に女優業を引退し、2015年に死去するまで隠遁生活を送っていた。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いた。
1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。同作で演じた役名「節子」から芸名をとって「原節子」とした。
1937年11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍する。
太平洋戦争中は、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演している。
1946年9月、終戦後の翌年の原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。
当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移る。
1947年6月フリーの女優として独立する。フリー第一作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。
1949年、『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。1961年、『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。
出典 原節子 - Wikipedia
1963年に女優業を引退し、2015年に死去するまで隠遁生活を送っていた。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いた。
1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。同作で演じた役名「節子」から芸名をとって「原節子」とした。
1937年11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍する。
太平洋戦争中は、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演している。
1946年9月、終戦後の翌年の原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。
当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移る。
1947年6月フリーの女優として独立する。フリー第一作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。
1949年、『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。1961年、『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。
出典 原節子 - Wikipedia
via www.asahicom.jp
1937年、日本と当時のナチス・ドイツとの間で、一本の国策的映画が製作された。山岳映画を得意としたドイツのアーノルド・ファンクと伊丹万作の共同監督で製作された『新しき土』である。
日本での興行的な成績では失敗に終わったが、主演女優として典型的な日本人女性大和光子を演じた原節子はその容貌と演技が絶賛され、戦時下の日本映画において欠かせない女優となった。
福島県大沼郡新鶴村(現会津美里町)境野出身。
昭和8年(1933年)、岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)中退。
昭和9年(1934年)、名古屋万平ホテルから熱海万平ホテルへ移ってウェイトレスをしていたところ、たまたま宿泊していた松竹の井上伊三郎取締役にスカウトされ、松竹蒲田撮影所に入社。いわゆる「大部屋」の無名女優からスタートする。
昭和20年(1945年)、俳優の森川信と結婚、女優を引退。一児をもうける。
昭和21年(1946年)、離婚。10月公開の『お光の縁談』で女優復帰。
昭和56年(1981年)、死去。62歳没。
戦後29年目にしてルバング島から帰還した小野田寛郎元少尉が「好きな女性のタイプ」として水戸光子の名前を挙げたことが報道された。