イビチャ・オシム 永遠のif
2021年9月15日 更新

イビチャ・オシム 永遠のif

世界を憂う哲学者のごとき容貌 相手の意図を瞬時に見透かす鋭い眼と自分の本心は明かさないしたたかさ 並のチームで格上に勝利する挑戦的な策略家

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【Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝ハイライト動画】鹿島vs千葉


2006年11月3日、オシムの日本代表監督就任となって3ヵ月後、ジェフはナビスコカップの決勝戦で鹿島アントラーズと対戦。
試合終了直前、鹿島ディフェンスのスキを突いてジェフの水野晃樹が先制ゴール。
その後も攻撃の手を緩めず、2分後にセットプレーから阿部勇樹がゴールを決めた。
前年のガンバ大阪との決勝戦では、0対0からPK戦にもつれたジェフが、今年は2対0で快勝し、ナビスコカップ2連覇を果たした。
国立競技場で胴上げされたのは、オシムの息子、アマルだった。
川淵三郎の失言が発端となって、オシムは契約満了を待たずしてジェフの監督を辞任。
コーチだったアマルが監督に昇格した。
ジェフサポーターにとって、オシムが日本代表監督が選ばれたことは誇らしかったし、ジェフから多くの日本代表が選ばれることも期待されたが、何よりも喪失感が大きかった。
事実、オシムが去った後、ジェフは低迷。
ナビスコカップでは優勝したものの、2006年シーズンは11位。
屈辱の2桁順位は、オシムが監督になった2003年以降、初。
2007年は残留争いに巻き込まれながら、13位でJ1残留。
アマルは解任された。
2008年は奇跡的に残留したが、2009年にJ2降格。
この間に、キャプテンの阿部勇樹、選手会長の坂本将貴、水野晃樹、羽生直剛、山岸智、水本裕貴、佐藤勇人など、2006年に奇跡を起こしたメンバーの半数が他チームへ移籍した。
「オシムさんが辞めた後も、息子のアマル・オシムコーチが昇格して監督になっていたので練習は変わらなかったんです。
でもイビチャ・オシム監督ともう1回一緒にやりたいという思いが強かった。
だから自分が代表に入るためには何をしなければいけないかって考えていました。」
(阿部勇樹)
「みんなオシムさんに育てられた選手ばかりなので、ジェフでオシムさんのサッカーができないのであれば新しいところでトライしないとというのはありましたね。
あとオシムさん自身が『リスクを冒せ』と、ことあるごとにいっていましたから。
自分に関しては、京都の監督だった(加藤)久さんから『ウチでオシムさんのサッカーを実現させるために力を貸してほしい』といわれたのが大きかったですね。
京都の選手としてジェフと対戦するときは、正直、複雑な気持ちでした。
ブーイングはある程度、覚悟していたんですけれどかなり罵声も浴びせられました。」
(佐藤勇人)
 (2300903)

川渕三郎の失言によって、2010年のワールドカップ南アフリカ大会に向けてドタバタの船出はとなった反面、オシムジャパンはサッカーファンのみならず一般の人からも注目度が高まり、「オシム語録」はブームとなった。
2006年8月4日、就任から約2週間後、オシムが最初の日本代表を千葉県に招集。
その人数は13人だったが
「11人以上いるので試合はできますよ。
この13人は90分間走れる選手。
それは冗談ですけど」
といい、この後、数名を追加招集。
日本代表初の「2段階召集」だった。
結局、召集されたメンバーは、ドイツワールドカップ経験者4名、海外組0人で、初招集や代表歴の浅い選手が大半を占めた。
以下は追加招集組の1人で日本代表初選出の鈴木啓太のコメント。
「オフだったので知り合いに会う予定を入れていました。
そしたら(浦和レッズの)強化部長からいきなり連絡がきて『明日から千葉にいってくれ』っていわれました。
ゴールデンエイジがいなかったことがすごく不思議でした。
僕たちの年代からすると、ずっと追いかけてきた高い壁みたいな人たちだった。
そんな人たちがいない代表って?って感じでした」
鈴木啓太は、オシムジャパンの全試合で先発出場し、オシムに「日本のマケレレ(クロード・マケレレ、フランス代表、レアル・マドリード、チェルシーで活躍をしたMF)」と評価されることになった。
この初召集で平成国際大学と練習試合を行われ、オシムは、先発メンバーだけを決め、
「ポジションは自分たちで決めろ」
と後は選手に任せた。
記者にその意図を聞かれ
「ここは軍隊じゃない。
命令など出しません」
と答えた。
翌日の練習で、8対8のミニゲームで3点しか入らなかったときも
「決定力不足では?」
と問われ
「シュート練習をして100点入れればいいのでしょうか?」
と答えた。
 (2300904)

たくさんの色のビブスを使用するなどオシム独特の練習に苦戦する代表選手が多かったが、スタッフやコーチもオシムと組むのは初めての人間が多く、戸惑うことが多かった。
大熊清コーチもその1人だった。
「代表コーチは大変でした。
大変というか勉強になりました。
勉強になったけど意外なことはいろいろありました。
オシム監督には、練習のオーガナイズ(準備)、組み分けを練習前に1回しか教えてもらったことがないんです。
その1回も、メニューを1番から5番まで聞いて、グラウンドに到着して1番の準備をしてたら5番から始まって・・・
そんな感じだからピッチではオレが1番緊張してたと思う。
バスでグラウンドに行くのが憂鬱でね。
その日何があるかわかんないし先がみえないから。
オシム監督は途中でいろいろ練習の内容を変えるし。
監督から次はどうするかって聞いてからコーン並べるんでメニューからメニューの間隔が長くなるし。
オシム監督の頭の中には全部入ってるんですよ。
それをこっちがわからなきゃいけない。
監督から4人のグループを4組つくれっていわれて選手をわけていると、
「お前、組み合わせを考えてやってるか」
「これ適当じゃないぞ」
っていわれるんです。
「どんな意図があってこの組み合わせなんだ」
とかいわれるからこっちも必死ですよ。
スタッフミーティングのときも2回ぐらい「出て行け」っていわれました。
監督がいきなり「コーチはみんな出ていってくれ」っていうんですよ。
理由もいわずに・・・「なんで?」って。
監督がああやっていたのは間違いなくチームって緊張感が大切だと示すためでしたね。
仕事は何でも緊張感がなくちゃいけない、一生懸命やっても緊張感がないとマンネリ化すると思ってたんでしょうね。
でもオシム監督は根がすごいいい人だから厳しいけどみんなついていきました。
口悪いけど。
あれも意図的なのかな」
(大熊清コーチ)
通常、代表合宿の夕食は18時からだったが、あるときオシムは
「18時30分にしたい」
とスタッフに伝えた。
しかしそれがうまく伝達されず、選手やコーチ、スタッフは先に食べ始めた。
遅れてきたオシムは、それをみて怒り、部屋に帰ってしまった。
すぐに大熊清コーチは、オシムの部屋まで食事を持っていった。
しかしベルを鳴らしてもドアは開かず、少し部屋の前で待っていたが食堂に戻った。
30分くらい経ってからオシムが食堂に現れ、1人で夕食を食べ始めた。
するとくつろいでいた食堂がピリッとなった。
 (2300952)


2006年8月8日、トリニダード・トバゴ戦の前日、オシムは
「歴史、戦争、原爆の上に立って考えないといけない。
負けたことから最も教訓を学んでいる国は日本だ。
それが今は経済大国になっている。
サッカーは何で他の強国と肩を並べることができないのか」
となぜか負けて学ぶことの重要性を説いた。
そして2-0で初陣を勝利で飾ると
「気がかりなことがあります。
サッカーは試合時間が90分間あります。
今日は90分間走り切ることができない選手がいた。
今日得た最も大きな教訓は走ることだ。」
と述べた。
2006年8月13日、イエメン戦の代表発表の記者会見では、
「負けたいと思う選手は1人もいない。
失敗から学ぶ姿勢がなければサッカーは上達しない。
もしいつも勝たないといけない危機感があったら子供たちはサッカーをしなくなる。」
とコメント。
この試合で阿部勇樹が初召集され、以後、試合では守備の中心となり、練習ではオシムの意図を伝える役割も担った。
イエメン戦のハーフタイムでオシムは
「後ろ6人で(ボールを)回してどうするんだ。
リスクを冒していかないと未来は開けないんだぞ。
人生も同じだ。」
とカツを入れた。
日本代表はイエメンに2-0で勝利。
2006年9月1日、日本代表は、エジプト戦のために現地入り。
到着直後に練習を行なった。
そ高温多湿の気候について聞かれ、オシムは
「感想をいって天気がよくなるならいうが、いってもよくならないのでいいたくない。」
2日後のサウジアラビア戦で、0-1で敗北。
「考えないでプレーしていること。
せっかくチャンスをつくれそうな状況なのに、ただ前に蹴っているだけ。
子供病とでもいうか、子供のようなプレーは恥ずかしかった。」
 (2300956)

2006年10月1日、ガーナ戦の代表招集の記者会見で
『今回の代表合宿で欧州組の招集も考えましたか?』
と聞かれ、オシムは
「私の頭が理髪店にいくためだけに存在しているとでもいうのでしょうか? 
彼ら(欧州組)も(代表招集の)考慮に入っています。
しかし彼らが旅行している(代表に招集されている)間に自分の仕事場が誰かに取られたらどうなるのか。
彼らは日本サッカーのショーウインドーです。
欧州で日本のサッカーをみせている彼らは貴重です。」
と答えた。
2006年10月03日、ガーナ戦の前日、
『FWの前線からのプレスはカギになるのか?』
と聞かれ
「私が発明したわけではないが、現代サッカーでボールを失った時点でFWが最初のDFになることは重要。
これはいい質問で、私がサッカー学校のテストでみなさんに出された問題に解答を出したみたいだ。
戦術という科目のね。」
と記者を評価。
翌日、ガーナ代表に0-1で敗れ
『オートマチズム(連動性)に問題があるのでは?』
と聞かれると
「私は結婚して40年になるが、まだ嫁とオートマチズムは取れていない。
なのに3ヵ月でどうやって選手間でつくるんですか?」
と答えた。
 (2300953)

2006年10月9日、インド戦を前にした練習後、オシムは
「覚えていてほしいが、どの戦術を採用するかではなく、チームはあらゆることに対応できるようになることだ。
それは試合前でなく試合中に。
臨機応変に変えられるチームを目指している」
と発言。
2006年10月10日、インド戦の前日記者会見で
『インドは守備を固めてくると予想されるが』
と聞かれ、
「あらかじめ戦い方は決められない。
相手の出方によって対応する。
決して受け身じゃないが相手が変化すればこちらも変化する。
最初から決められない。
裏をかくというのはあるが。
ここは相手のホーム。楽勝と考えるのは失礼。
国際試合では相手をリスペクトするのが負けない秘訣だ。」
翌日の試合は3-0で勝利した。
「それまで試合前に監督に個人的に呼ばれたことはなかったんですが、インド戦の前に初めて呼ばれました。
そのときいわれたのは、「自信持ってやれ」って。
その言葉はそれからも何度かいわれたかな。
2010年、南アフリカのワールドカップ前にもね、手紙で」
(阿部勇樹)
2006年10月17日、JFA公認S級コーチ養成講習会で講師となったオシムが、日本代表やJリーグの監督などを目指す25人に講義を行った。
「バルセロナを目指してやろう、と選手にいい聞かせる権利はある。
ただバルセロナとは差があることを実感するだろう。
監督として知っておかなければいけないのは“何ができて、何ができないか”。
簡単なことではない。
客観的に自分、選手、サポーターをみる。
スポンサーは成績を上げることを考えるが、それを冷静にさせることができるのは監督だけなんだ。」
 (2300957)

2006年11月12日、アジアカップ予選、最終戦、サウジアラビア戦を前に、日本はすでに突破を決めていたが、オシムは
「名誉のため、内容と共に結果を求めます。
どうしても勝たないといけないという試合ではないが名誉がかかっている。
(選手の)テストだけでは終われません。」
と発言。
3日後、日本代表はサウジアラビア戦に、3-1で勝利した。
試合後の記者会見で
『サウジの24番をもっと厳しくマークすべきだったのでは?』
と聞かれ、オシムは、
「これは極端な話だが、バルセロナと試合するとき、ロナウジーニョにマンマークしたとする。
その場合はマークする選手が必要以上に怯える。
相手を消すプレーしかしない。
でもロナウジーニョをマークする選手が前線に走ったとき、ロナウジーニョがその選手の守備にいけば、もはやロナウジーニョではない。
そんな対策もある。」
と回答した。
2006年11月26日、JリーグのFC東京 vs 浦和レッズ。
浦和レッズは勝てば優勝だったが0―0の引分。
観戦していたオシムは、
「一生懸命探すニワトリだけが餌にありつける。
浦和はこの試合に負けても次で勝つ(優勝する)チャンスがあった。
オール・オア・ナッシングでいく(攻める)べきだった。
選手の疲労や負傷でそうできなかったかもしれないけど・・」
とコメント。
 (2300960)

2006年12月17日、横浜でクラブワールドカップ、インテルナシオナル(ブラジル) vs バルセロナ(スペイン)が行われ、1-0でインテルナシオナルが勝利。
観戦後、オシムは、
「一方(バルセロナ)はスペクタクルに見せ物として戦った。
一方(インテルナシオナル)は生活のためにスキルを実用的に使った。
1人でも走れない選手がいては勝てない。
現代サッカーの特徴があらわれた試合。
誰を指してのこととはいいませんが・・・」
とコメント。
バルセロナの走れない選手とは、おそらくロナウジーニョ!
2006年12月18日、Jリーグ・アウオーズ(Jリーグの年度表彰式)で浦和のDF、田中マルクス闘莉王がMVPを受賞。
オシムは、
「これからDFを目指す人に価値あること。
よい攻撃をするにはDFが創造的で危険な攻撃をしないといけない。
カンナバロ(イタリア代表DF)もMVPをとってるし、日本も世界のトレンドを追っている。」
とコメント。
オシムはディフェンスに、後方から試合をしっかりと組み立てることを望み、フィード(供給、前線へパスを送る)能力が高い上、リスクを冒して点を取りにいく闘莉王を日本代表に初選出していた。
 (2300961)

2006年12月20日、アジアカップの組合わせが決定。
予選グループリーグ(4チームずつの4グループにわかれ、各グループ上位2チームが決勝トーナメントに進出)で日本代表はグループBに入った。
グループBは、日本、ベトナム、UAE(アラブ首長国連邦)、カタールで「死の組」と呼ばれたが、オシムは
「オーストラリアや韓国と同じ組でもよかった。
タフなグループを勝ち抜く経験ができる。」
と強気。
2007年2月13日、2007年度の日本代表の日程発表の記者会見で、報道陣に欧州組の招集について聞かれたオシムは
「皆さん方が(欧州組を)呼びたがってるのはわかるが、呼んだらどうなるか副作用も考えなくてはいけない。
大阪-東京と欧州-日本は違う。
(来ることで)レギュラーを失う可能性もある。
どうしたらいいか皆さんの知恵も借りたい。
欧州にいる人がスーパーマンならいいですけど。」
と慎重な姿勢を示した。
2007年2月16日、日本代表は千葉県内で流通経済大学との練習試合で初選出された矢野貴章のハットトリックもあり、5-2。
オシムは
「争いが激しくなって選択肢が増える。」
とコメント。
2007年2月19日、日本代表は、東海大との練習試合で、10-0。
途中、選手が1タッチ、2タッチでパスを急いだ理由を聞かれ、オシムは
「私は何もいっていません。
選手に聞いてください。
でも選手に秘密にするので他言するなといったこともあります。」
 (2300963)


2007年2月23日、Jリーグ監督会議で、2日前に行なわれた欧州チャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦、セルティック(スコットランド) vs ACミラン(イタリア)戦について、オシムは、
「ACミランには、よい選手が9人もそろっている。
セルティックが勝つには、ナカムラがもう1人はいないと、1人では連係もできない。」
とコメント。
この試合で中村俊輔が所属するセルティックは、強豪ACミランに終始押され、中村俊輔は2度フリーキックを狙ったが得点は挙げられず、0-0で引き分けていた。
少し前、中村俊輔は、ウエイン・ルーニー、ライアン・ギグス、クリスチアーノ・ロナウドなどをそろえるビッグクラブ、マンチェスターユナイテッドと対戦し、193㎝のファンデルサール(オランダ代表)が一歩も動けないほど芸術的なフリーキックを決めていた。
2007年3月19日、オシムはペルー戦の代表メンバーを発表。
初めて欧州組(中村俊輔、高原直泰)が召集された。
2007年3月23日、ペルー戦の前日記者会見で、中村俊輔と高原直泰、欧州組の2人ばかりに質問が集中すると、
「2対9。
2人の方ではなく9人の方が優先権がある。
彼ら2人のためにチームがやるのか、彼らがチームに適応するのか、どちらがいいのでしょう。
皆さんに聞きたい。
2人も大事だが、私にとって、その他の選手も大事なんです。
帰ってきた2人を楽な状況にしたい。
過度の期待が周りからかかってると感じているかも。
彼らも人間ですよ!」
とクギを刺した。
翌日、日本代表はペルーに2-0で勝利した。
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