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父親のラーメン屋は繁盛し、経営者から事業譲渡の話を受け、6畳の隣にあった4畳の部屋や屋根裏部屋も使えるようになり、家族7人は、やっと人並みな生活ができるようになった。
が、その矢先、学校の昼休みに校庭で遊んでいると
「ピンポンパンポンッ」
と校内放送が鳴って、アンミカと兄妹が次々と呼び出され、職員室にいくと家が火事であると告げられた。
両親が仲人として結婚式に参加していて、紅白まんじゅうをブラ下げて帰宅。
焼け跡で家族そろって紅白まんじゅうを食べ、一張羅を着て持っているアクセサリーをすべて身につけていて母親は
「(焼けずに済んで)ラッキーだったわ」
と笑いながらいい、家族が全員無事だったことを喜んだ。
「ラーメン屋さんは、すごく流行ったんです。
その間が人生で唯一、本当に人並の、普通の家庭のように育ったときでした」
そしてこの火事で、初の海外旅行もキャンセルとなった。
「父と母は民団(在日本大韓民国民団)の企画か何かで、2年に1回ぐらい済州島に帰っていました。
そのときにいつも兄弟のうちの1人を一緒に連れて行ってくれました。
最初に兄が行って、2年後に姉がいき、次はいよいよ私だというときに家が火事になってしまったのです。
結局、私と妹は韓国に行ったことが一度もないまま、大人になってしまいました」
が、その矢先、学校の昼休みに校庭で遊んでいると
「ピンポンパンポンッ」
と校内放送が鳴って、アンミカと兄妹が次々と呼び出され、職員室にいくと家が火事であると告げられた。
両親が仲人として結婚式に参加していて、紅白まんじゅうをブラ下げて帰宅。
焼け跡で家族そろって紅白まんじゅうを食べ、一張羅を着て持っているアクセサリーをすべて身につけていて母親は
「(焼けずに済んで)ラッキーだったわ」
と笑いながらいい、家族が全員無事だったことを喜んだ。
「ラーメン屋さんは、すごく流行ったんです。
その間が人生で唯一、本当に人並の、普通の家庭のように育ったときでした」
そしてこの火事で、初の海外旅行もキャンセルとなった。
「父と母は民団(在日本大韓民国民団)の企画か何かで、2年に1回ぐらい済州島に帰っていました。
そのときにいつも兄弟のうちの1人を一緒に連れて行ってくれました。
最初に兄が行って、2年後に姉がいき、次はいよいよ私だというときに家が火事になってしまったのです。
結局、私と妹は韓国に行ったことが一度もないまま、大人になってしまいました」
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焼き出された一家は、教会の支援を受けながら生活。
やがて家と店を建て直し、再出発したが、1年と経たないうちにマンション建設のために立ち退き。
ラーメン屋を畳んだ両親は、小さな家に移り住んで居酒屋を始めたが、うまくいかず、さらにガンで入退院を繰り返していた母親の病状が悪化し、父親は出稼ぎに出ることになった。
中学校1年生のアンミカも早朝に新聞配達を開始。
最初のきっかけは、月2千円のそろばん教室。
「兄たちと同じようにそろばんを習いたい」
と父親に頼むと
「お金がないからダメだ」
といわれ、
「どうして私だけ塾や習い事をさせてもらえないの」
と訴えるが、
「それならお兄ちゃん、お姉ちゃんに教えてもらいなさい」
といわれてしまい、
「たった2千円の月謝が払えないなんて」
と不貞腐れると、
「2千円稼ぐのがどれだけ大変か、勉強しなさい」
と叱られ、
「1ヵ月間、1度も休まずに兄の新聞配達についていけたら、そろばんを習わせてあげる」
という条件を出されたのである。
すでに中学2年生の兄が新聞配達をしており、アンミカは
「絶対にやる」
と決め、1ヵ月間やり遂げると父親は、約束通りそろばんを習わせてくれた。
やがて家と店を建て直し、再出発したが、1年と経たないうちにマンション建設のために立ち退き。
ラーメン屋を畳んだ両親は、小さな家に移り住んで居酒屋を始めたが、うまくいかず、さらにガンで入退院を繰り返していた母親の病状が悪化し、父親は出稼ぎに出ることになった。
中学校1年生のアンミカも早朝に新聞配達を開始。
最初のきっかけは、月2千円のそろばん教室。
「兄たちと同じようにそろばんを習いたい」
と父親に頼むと
「お金がないからダメだ」
といわれ、
「どうして私だけ塾や習い事をさせてもらえないの」
と訴えるが、
「それならお兄ちゃん、お姉ちゃんに教えてもらいなさい」
といわれてしまい、
「たった2千円の月謝が払えないなんて」
と不貞腐れると、
「2千円稼ぐのがどれだけ大変か、勉強しなさい」
と叱られ、
「1ヵ月間、1度も休まずに兄の新聞配達についていけたら、そろばんを習わせてあげる」
という条件を出されたのである。
すでに中学2年生の兄が新聞配達をしており、アンミカは
「絶対にやる」
と決め、1ヵ月間やり遂げると父親は、約束通りそろばんを習わせてくれた。
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毎日21時に寝て、3時30分~4時30分に起き、新聞配達をこなしてから学校に行くという生活は、中1~高3まで6年間続き、その間にそろばんは飛び級で段まで進んだ。
1番ツラかったのは、雨と寒さで雪の日は最悪だったが
「皆勤賞は月プラス2000円」
というシステムもあって休まず新聞配達。
あるとき配達が遅れてしまい、高齢男性が
「配達担当者に会わせろ」
と乗り込んできたことがあったが、中学生のアンミカをみると態度を急変させて、逆にすまなさそうにヤクルトをくれ、同じように他社の新聞の配達員に自動販売機のコーンスープやココアを買ってもらった。
「当時の私にとって、100円の飲み物がどれだけ贅沢なことだったか!」
その他にも新聞配達を行うことで
・お金を稼ぐことの大変さを学べた
・新聞を読む習慣がついた
・新聞配達は、自営業に近い今のモデルという仕事にも通じるものがある
・朝型人間になったこと、現在も「夜10時には眠くなります」
ということがのメリットを得て、
「朝ちょっと早く起きて学校の授業の予習ができて、部活の朝練もやれて、その上お金も稼げるなんて1石3鳥くらいに思っていましたし、新聞配達をしていたとき、自分の仕事に誇りを持っていました」」
という。
1番ツラかったのは、雨と寒さで雪の日は最悪だったが
「皆勤賞は月プラス2000円」
というシステムもあって休まず新聞配達。
あるとき配達が遅れてしまい、高齢男性が
「配達担当者に会わせろ」
と乗り込んできたことがあったが、中学生のアンミカをみると態度を急変させて、逆にすまなさそうにヤクルトをくれ、同じように他社の新聞の配達員に自動販売機のコーンスープやココアを買ってもらった。
「当時の私にとって、100円の飲み物がどれだけ贅沢なことだったか!」
その他にも新聞配達を行うことで
・お金を稼ぐことの大変さを学べた
・新聞を読む習慣がついた
・新聞配達は、自営業に近い今のモデルという仕事にも通じるものがある
・朝型人間になったこと、現在も「夜10時には眠くなります」
ということがのメリットを得て、
「朝ちょっと早く起きて学校の授業の予習ができて、部活の朝練もやれて、その上お金も稼げるなんて1石3鳥くらいに思っていましたし、新聞配達をしていたとき、自分の仕事に誇りを持っていました」」
という。
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オリンピックで韓国の選手がメダルを獲ると両親が涙を流して喜ぶのを目撃し、自身も、
「スポーツには差別はない」
と感じたアンミカは、
「中学校に上がったら陸上部に入ろう」
と思っていた。
しかし宝塚歌劇の舞台がテレビで放映されていて、それを観た両親に勧められたこともあって、実際に体験入部で入ったのは演劇部だった。
演劇部に入ってみると、
「あんたは見込みあるから腹筋50回」
「あんたには期待してるからグラウンド10周」
と体育会系のハードトレーニングを命じられ、それを真面目にこなした後、本来の演劇部の練習に参加したが、すでに終わっていて何もできない日もあった。
「スポーツには差別はない」
と感じたアンミカは、
「中学校に上がったら陸上部に入ろう」
と思っていた。
しかし宝塚歌劇の舞台がテレビで放映されていて、それを観た両親に勧められたこともあって、実際に体験入部で入ったのは演劇部だった。
演劇部に入ってみると、
「あんたは見込みあるから腹筋50回」
「あんたには期待してるからグラウンド10周」
と体育会系のハードトレーニングを命じられ、それを真面目にこなした後、本来の演劇部の練習に参加したが、すでに終わっていて何もできない日もあった。
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「腹筋の最中にお腹にバッグをぶつけられたりしても「期待されている」と問題にもしない。
根がポジティブなんです。
「走るときは笑顔で走り」と命じられても「演劇の稽古に必要なんだ」と思って微笑みながら走っていました」
そんな健気なアンミカをみて、実は演劇部の先輩たちは笑っていた。
そんなことを知らないアンミカは、
「早く走り終えないと練習に参加できない」
とグランドを笑顔でダッシュ。
「あの子、めっちゃ楽しそうに走ってる」
笑顔で疾走するアンミカをみた陸上部は、
「うちに来ない?」
とスカウトした。
陸上部に勧誘されたアンミカが、一緒に演劇部に入った友人に相談すると
「良かった。
いつ教えてあげようかと思ってたんやけど、あんたはイジメられてるんよ。
だから早よ、陸上部いき」
といわれ、演劇部の先輩が自分が走っているとき、陰で爆笑していたのを知った。
根がポジティブなんです。
「走るときは笑顔で走り」と命じられても「演劇の稽古に必要なんだ」と思って微笑みながら走っていました」
そんな健気なアンミカをみて、実は演劇部の先輩たちは笑っていた。
そんなことを知らないアンミカは、
「早く走り終えないと練習に参加できない」
とグランドを笑顔でダッシュ。
「あの子、めっちゃ楽しそうに走ってる」
笑顔で疾走するアンミカをみた陸上部は、
「うちに来ない?」
とスカウトした。
陸上部に勧誘されたアンミカが、一緒に演劇部に入った友人に相談すると
「良かった。
いつ教えてあげようかと思ってたんやけど、あんたはイジメられてるんよ。
だから早よ、陸上部いき」
といわれ、演劇部の先輩が自分が走っているとき、陰で爆笑していたのを知った。
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こうして演劇部を10日でやめて陸上部に入部。
「決して恵まれているとは言えない環境で育った私は、与えられたものを受け入れるしかありませんでした。
けれども苦労を苦労と思っていなかったようなところもあります。
どうせ受け入れるならしんどいとは思わず楽しんでやろうという習性が知らず知らず身についていたからです。
何事も楽しんでやっていれば必ず道は拓けてくると思うんです。
演劇部の一件も自分がイジメにあっていると気づいていなかったわけですから精神的な苦痛はありませんでしたが、肉体的にハードだったのは事実。
でもどうせなら楽しんでやるに越したことはない。
そんな風に思い思いながら命じられたトレーニングをやっていたら陸上部からお声がかかったんです。
演劇部の先輩たちに対して「今にみていろ」みたいな気持ちはありませんでした。
もともと陸上部に入ろうと思っていたことを思い出し、迷うことなく陸上部に転部したのです。
選択は正解でした。
その後、中学、高校と6年間にわたって陸上競技を続けることになり、そこそこの成績を残すことができたのです」
周りに歩調を合わせつつ、気の強さや自己顕示欲を内に秘めたアンミカは、差別や理不尽なことをされると悔しくて、ものすごく努力。
スポーツだけでなく勉強も頑張り、成績はいつも良く、中2のとき、担任の先生に、
「あなたは仕切る力があるから、やってよ」
といわれて文化祭や体育祭で消極的な生徒に声をかけて盛り上げた。
「決して恵まれているとは言えない環境で育った私は、与えられたものを受け入れるしかありませんでした。
けれども苦労を苦労と思っていなかったようなところもあります。
どうせ受け入れるならしんどいとは思わず楽しんでやろうという習性が知らず知らず身についていたからです。
何事も楽しんでやっていれば必ず道は拓けてくると思うんです。
演劇部の一件も自分がイジメにあっていると気づいていなかったわけですから精神的な苦痛はありませんでしたが、肉体的にハードだったのは事実。
でもどうせなら楽しんでやるに越したことはない。
そんな風に思い思いながら命じられたトレーニングをやっていたら陸上部からお声がかかったんです。
演劇部の先輩たちに対して「今にみていろ」みたいな気持ちはありませんでした。
もともと陸上部に入ろうと思っていたことを思い出し、迷うことなく陸上部に転部したのです。
選択は正解でした。
その後、中学、高校と6年間にわたって陸上競技を続けることになり、そこそこの成績を残すことができたのです」
周りに歩調を合わせつつ、気の強さや自己顕示欲を内に秘めたアンミカは、差別や理不尽なことをされると悔しくて、ものすごく努力。
スポーツだけでなく勉強も頑張り、成績はいつも良く、中2のとき、担任の先生に、
「あなたは仕切る力があるから、やってよ」
といわれて文化祭や体育祭で消極的な生徒に声をかけて盛り上げた。
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中学3年生のとき、闘病中の母親が、もう長くないと医師にいわれ、進学校である住吉高校に進み、その姿をみせようと思っていたアンミカは、生きているうちに何か朗報を届けたくて、父親に
「モデルになりたい」
といい、許可をもらうと20社ほどのモデル事務所に写真と手紙を送った。
しかしことごとく送り返されてきたため、作戦を変更。
ターゲットを1社に絞り、何度も何度も書類を送ったが、結果は同じ。
それでもあきらめずに電話をかけて、
「私は写真写りが悪いだけで、絶対におたくにとってプラスになる人材です。
会わないと損ですよ。
どうか1度会ってみてください」
とアピール。
「そこまでいうなら」
と熱意に負けた社長が自ら面接をすることになったが、
「ちょっと・・」
ということで不合格。
しかし帰り際、
「いつでも遊びにおいで」
という社長のリップサービスをアンミカは見逃さなかった。
アンミカは、毎週火曜に遊びにいき、
「また来たの」
といわれながらスタッフと親しくなった。
そのうちにレッスン生に1人欠員が出て、本来、面接をパスした者しか受けられないレッスンに
「特別に」
参加できることになった。
レッスンは、ウォーキングや立ち居振る舞いなどモデルの基本を3ヵ月間学ぶもので、最後にウォーキングのテストがあって合格すれば、事務所の所属モデルになれるというシステムだった。
受講料5万円は、新聞配達だけで払い切れず、アンミカは再び
「特別に」
分割払いにしてもらった。
「モデルになりたい」
といい、許可をもらうと20社ほどのモデル事務所に写真と手紙を送った。
しかしことごとく送り返されてきたため、作戦を変更。
ターゲットを1社に絞り、何度も何度も書類を送ったが、結果は同じ。
それでもあきらめずに電話をかけて、
「私は写真写りが悪いだけで、絶対におたくにとってプラスになる人材です。
会わないと損ですよ。
どうか1度会ってみてください」
とアピール。
「そこまでいうなら」
と熱意に負けた社長が自ら面接をすることになったが、
「ちょっと・・」
ということで不合格。
しかし帰り際、
「いつでも遊びにおいで」
という社長のリップサービスをアンミカは見逃さなかった。
アンミカは、毎週火曜に遊びにいき、
「また来たの」
といわれながらスタッフと親しくなった。
そのうちにレッスン生に1人欠員が出て、本来、面接をパスした者しか受けられないレッスンに
「特別に」
参加できることになった。
レッスンは、ウォーキングや立ち居振る舞いなどモデルの基本を3ヵ月間学ぶもので、最後にウォーキングのテストがあって合格すれば、事務所の所属モデルになれるというシステムだった。
受講料5万円は、新聞配達だけで払い切れず、アンミカは再び
「特別に」
分割払いにしてもらった。
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数ヵ月間、誰よりも早く教室に行って熱心にレッスンを受け、最後のウォーキングのテストもパスし、事務所に所属することができたが
「高校生の間だけ」
という条件つきだった。
その理由として、
「あなたは顔が特別美しいわけでも、背が高いわけでも、顔が小さいわけでもないからスチールモデルもショーモデルも無理。
もちろんこの先、あなたがもっと頑張れば未来は変わるかもしれないけれど、今のところはモデルになろうという夢は持たなくていい。
高校を卒業したら普通の社会人になりなさい」
といわれた。
「要するに所属させてもらえたのは私の熱意と努力に対するご褒美に過ぎなかったのです。
結局、その事務所に所属していた3年間、モデルの仕事が回ってきたことはほとんどありませんでした。
しかし16歳で母が他界するまでにモデルになった報告ができたことは、私の人生の誇りです」
母親は、アンミカ15歳のときに43歳で他界。
亡くなる前の2年間は病院で医療装置に繋がれ、寝たきりの状態だった。
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住吉高校でも新聞配達をしながら陸上部に入り、800mや3000mなどの中長距離を走り、
「ペース配分が難しく苦しすぎて、他にやる人がいないんですね。
誰も選手がいないからと選んだらハマってしまいました。
持久力が培われたかと思います」
というアンミカは、モデルとして事務所から仕事の依頼はなく、週末にモデルのオーディションを受けて落ちることもあったが、陸上に熱中していたために精神的なダメージは皆無。
「スポーツ推薦で大学に進学して普通の人生を歩むのも・・・」
とも思っていたが、高2のときに不整脈がひどくなり、ドクターストップがかかって走ることを断念せざる得なくなった。
すると
「やっぱりモデルをやりたい」
という気持ちが一気に高まり、モデルとして独り立ちした自分を想像するとワクワクし
「もうモデルとしてやっていくしかない」
と職業としてモデルの道を歩むことを決め、高3の2学期が終わった頃、父親にそれを告げた。
しかし父親は、
「大学に行ってほしい」
と反対。
「ペース配分が難しく苦しすぎて、他にやる人がいないんですね。
誰も選手がいないからと選んだらハマってしまいました。
持久力が培われたかと思います」
というアンミカは、モデルとして事務所から仕事の依頼はなく、週末にモデルのオーディションを受けて落ちることもあったが、陸上に熱中していたために精神的なダメージは皆無。
「スポーツ推薦で大学に進学して普通の人生を歩むのも・・・」
とも思っていたが、高2のときに不整脈がひどくなり、ドクターストップがかかって走ることを断念せざる得なくなった。
すると
「やっぱりモデルをやりたい」
という気持ちが一気に高まり、モデルとして独り立ちした自分を想像するとワクワクし
「もうモデルとしてやっていくしかない」
と職業としてモデルの道を歩むことを決め、高3の2学期が終わった頃、父親にそれを告げた。
しかし父親は、
「大学に行ってほしい」
と反対。
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衝突が続いた後、最終的に父親は、
「モデルをやるなら家を出ろ。
もちろん援助はしない」
といい、
・家を出ること
・一流モデルと世の中に認められるまで、たとえ母の法事でも実家の敷居を跨がないこと
・社会で役立てるような資格を取ること
という3つの条件を突きつけた。
アンミカは、残りの高校生活をアルバイトに明け暮れ、卒業と同時に家を出て、モデル仲間と一緒に生活を始めた。
「友達との共同生活を選んだのは経済的な理由から。
1人暮らしはあまりにもハードルが高かった」
「モデルをやるなら家を出ろ。
もちろん援助はしない」
といい、
・家を出ること
・一流モデルと世の中に認められるまで、たとえ母の法事でも実家の敷居を跨がないこと
・社会で役立てるような資格を取ること
という3つの条件を突きつけた。
アンミカは、残りの高校生活をアルバイトに明け暮れ、卒業と同時に家を出て、モデル仲間と一緒に生活を始めた。
「友達との共同生活を選んだのは経済的な理由から。
1人暮らしはあまりにもハードルが高かった」