2017年9月9日 更新
元祖ハーフタレントのアイドルユニット「ゴールデン・ハーフ」
雨後の竹の子の如く、現れては消えていくハーフ系タレント。その元祖とでもいうべき存在が今回紹介する「ゴールデン・ハーフ」です。70年代に登場し、昭和のお化け番組『8時だョ!全員集合』にもレギュラー出演していた彼女たちの軌跡をまとめました。
ハーフタレントの元祖は誰なのか?
ローラ、マギー、トリンドル玲奈、ダレノガレ明美、藤田ニコル、ホラン千秋など…。現在、芸能界で活躍するハーフの女性タレントたち。美しい容姿と天真爛漫なキャラクターで人気を集めているのはご存じの通りです。
マギー
そもそも、いつから「ハーフタレント」というジャンルが、確立されたのでしょうか?明確に時期を特定するのは非常に困難ですが、60年代頃から、混血の女性芸能人が活躍していたのはたしかです。
当時のハーフタレントといえば、山本リンダや小畑ミキ、泉アキ、恵とも子などが有名。彼女たちの多くが、終戦から間もなくして連合国軍兵士と日本人女性との間に生まれた「GIベビー」でした。山本リンダなどは、1950年6月に勃発した朝鮮戦争でアメリカ軍兵士の父親を亡くし、貧しい母子家庭で育ったがゆえに、家計を支える目的で芸能界デビューしたといいます。
そんな成長した「GIベビー」たちが活躍する芸能界にゴールデン・ハーフが登場したのは、1970年のこと。「メンバー全員がハーフ」という特異な背景を持つ彼女たちは、渡辺プロダクションからデビューを果たします。
芸能界を牛耳っていた60~70年代のナベプロ
今でこそ、大手芸能プロの一つ程度のポジションに収まっている渡辺プロダクションですが、芸能界黎明期における権勢といったら絶対的なものであり、「渡辺プロなくしては歌番組やバラエティ番組は作れない」と語られるほどだったといいます。
そんなナベプロが仕掛けた『日劇ウェスタンカーニバル』(1958年)や『ザ・ヒットパレード』(1959年)の影響により、1960年代には洋楽カバーのポップスが大流行。弘田三枝子がコニー・フランシスの『ヴァケィション』を、伊東ゆかりがリトル・エヴァの『ロコ・モーション』を日本語訳で歌い、いずれもヒットさせています。
ザ・ヒットパレード 『フジテレビ1960年代』
日本語訳の洋楽ポップスを歌っていたゴールデン・ハーフ
『ゴールデン・ハーフ』も、弘田や伊東同様、日本語訳をつけた洋楽ポップスの歌い手でした。メンバーはスペイン人(父)と日本人(母)のハーフ・エバ、アメリカ人(父)と日本人(母)のハーフ・マリア、ドイツ人(父)と日本人(母)のハーフ・ルナ、タイ人(父)と日本人(母)のハーフ・エリー、イタリア人(父)と日本人(母)のハーフ・ユミの計5人。しかし、ユミは後に両親ともに日本人であることを公表しています。
彼女たちのデビューシングルは、『黄色いサクランボ』。こちらは「スリーキャッツ」という和製グループのカバーだったものの、続くセカンドシングル『ケ・セラ・セラ』(ドリス・デイのカバー)以降は、洋楽カバー路線を突き進んでいきました。
『8時だョ!全員集合』にレギュラー出演していた
彼女たちの人気を不動のものにしたのが『8時だョ!全員集合』へのレギュラー出演でした。平均視聴率は27.3%、最高視聴率50.5%という昭和のお化け番組に毎週登場した彼女たちは、一躍、お茶の間のアイドルとなったのです。他にも、映画『喜劇 昨日の敵は今日も敵』や『ハッチャキ!!マチャアキ』など、ナベプロが制作に絡んでいる映画やバラエティなどへ多数出演していました。
ちなみに、ドラマ『古畑任三郎』において、主人公の古畑(田村正和)とその部下・今泉(西村雅彦)、科学捜査研究所の桑原(伊藤俊人)は、「かつてゴールデン・ハーフのファンだった」という設定になっています。おそらく、同作品の脚本をつとめた三谷幸喜も彼女たちのファンだったのでしょう。
8時だョ!全員集合
1974年に解散。メンバーのその後とは?
こうしてナベプロの政治力を背景に、活躍の場を広げていったゴールデン・ハーフでしたが、デビュー直後にエリーが抜け、続いて1973年春にリーダーのユミも脱退し、1974年にリリースした10枚目のシングル『メロンの気持』を最後に解散してしまいます。
最後に、解散当時のメンバーが歩んだその後の人生について紹介していきましょう。
アメリカ人とのハーフ・マリアは、グループ解散後、シスターを目指すも挫折し芸能界へ復帰。森マリアの名前で時代劇などへ出演していましたが、現在は女優業を引退しています。
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