GON 中山雅史 本能むき出しの点取り屋 ハットトリック男 熱血、不器用、猪突猛進、侍エースストライカー
2020年6月30日 更新

GON 中山雅史 本能むき出しの点取り屋 ハットトリック男 熱血、不器用、猪突猛進、侍エースストライカー

Q.好きな言葉は?「力」 Q.欲しいものは?「膝の軟骨、半月板、テクニック」Q. 中山雅史にあるものは?「負けず嫌いとサッカーを愛する気持ちだけ。ほかになにもないから中山雅史だった。なにもないからなにかを得ようともがき苦しみ、もがき苦しむことから抜け出すために、手を伸ばし、その先をつかもうと努力した。ずっとその繰り返しだった」

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ワールドカップ日本人初ゴール

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ワールドカップ本大会初出場を果たした日本代表の平均年齢は25歳。
最年長は、32歳のゴールキーパーの小島伸幸。
次いで、30歳の中山雅史と井原正巳だった。
予選グループリーグで、日本は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと同組になった。
総当たり戦を行い上位2チームが決勝トーナメントに進むことができる。
第1戦、アルゼンチン戦は0対1で敗退。
第2戦、クロアチア戦。
前半34分、右サイドでボールを奪いかけ上がった中田英寿が、ディフェンスの裏をとって中央に走りこんだ中山雅史にスルーパス。
中山雅史は見事なトラップでボールを足元に収めた。
最高の舞台で最高のトラップだった。
「もし入っていれば、これ以上のゴールは望めないし、僕のサッカーへの挑戦はもっと早く終わっていたかもしれない」
右足のシュートはゴールキーパーのファインセーブにゴールを阻まれた。
試合は0対1で敗退。
第3戦、ジャマイカ戦。
日本はすでに予選敗退が決まっていたが、中山雅史は目の前の戦いに勝つことを忘れなかった。
セオドア・ウィットモアに2点をとられ、0対2でリードされた後半29分、呂比須ワグナーがヘッドでヘッドで返し、それに中山雅史が右足で合わせゴールを決め1対2に迫った。
ワールドカップ日本人初ゴールにスタジアムは沸いた。
中山雅史は険しい表情で、ボールを拾い上げた呂比須ワグナーと共にセンターサークルに走り、どこまでも勝つ姿勢を貫いた。
その直後、相手選手と接触し、右足腓骨を亀裂骨折したが、顔を歪めながらも試合終了まで走り抜いた。
しかし試合は1対2で負け、日本人代表のワールドカップ初挑戦は、1次リーグ3戦全敗1得点という結果に終わり、中山雅史は松葉杖で帰国した。
2ヵ月後、復帰。
ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったが、Jリーグの後半戦も1試合1点のペースで得点し続けた。
1998年シーズンは、27試合36得点。
得点王、MVP、ベストイレブンなど個人タイトルを総ナメ。
しかしジュビロ磐田はチャンピオンシップで前年の雪辱を期する鹿島アントラーズに敗れ、ーグ優勝を逃した。

「黙らせてやる」

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1999年4月30日、アジア最強クラブを決定するアジアクラブ選手権の決勝で、ジュビロ磐田はイランの強豪クラブ:エステグラル・テヘランと対戦した。
ジュビロ磐田は、成田から30時間かけてテヘランに移動。
標高1300mの希薄な空気と10万人を収容したアザジスタジアムには、機関銃を持った兵士に守られながら入った。
日本からかけつけたジュビロ磐田サポーターもいたが、女人禁制のため女性はスタジアムに入れねかった。
薄暗い通路を抜けるとまぶしいピッチがあった。
歓声、怒号、口笛、爆竹、発煙筒、青色(ジュビロ磐田のユニフォームカラー)に塗られ飛べないよう縛られた鳩、石・・・
さまざまなものが観客席から降ってきたが、コインがヤマハフットボールクラブ社長:荒田忠典の額に当たり出血した。
「やってやろうぜ」
「黙らせてやる」
中山雅史の声が響いた。
ジュビロ磐田は、エステグラル・テヘランの個人技とスピードに押された。
しかし前半、鈴木秀人と中山雅史が得点し2対0.
後半もこの差を守り切って勝利、
アジアチャンピオンは機関銃にガードされながらロッカールームに駆け込んだ。
3時間後、スタジアムを出ると、5日後の鹿島アントラーズ戦のために急いで荷物をまとめた。
テヘランからドイツのフランクフルトに飛び、2時間の乗り継ぎ時間を挟んで日本へ。
約24時間後、5月3日の夜更けに磐田市に帰った。
5月4日、午前中軽く練習してから東京のホテルに移動。
5月5日、国立競技場で鹿島アントラーズと対戦。
鹿島アントラーズは7位。
ジュビロ磐田は首位だったが、
1997年、レギュラーシーズン全敗
1998年、チャンピオンシップも含め全敗。
と対戦成績ではアントラーズに圧倒されていた。
前半37分、鹿島アントラーズ、20歳の小笠原満男がJリーグ初ゴール
後半もアントラーズペースで進んだが、試合残り時間6分、ジュビロ磐田、名波浩がフリーキックを決めて同点。
15分ハーフの延長戦へ入ると両チームとも疲労が濃く足が止まり、仕掛けも崩しもなくなり、ひたすらシュートを打ち、ひたすら跳ね返す展開が続いた。
延長後半6分、腕にキャプテンマークをまいた中山雅史が相手ディフェンダーと競り合ってヘッドで落としたボールを藤田俊哉がシュートし決勝ゴールを決めた。
藤田俊哉はピッチに大の字になり、そこに中山雅史が飛びつき、川口信男と名波浩が続いた。
10日間30000㎞の旅は2つの勝利で終わった。
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6月15日、パラグアイでコパアメリカが開幕された。
日本は、グループリーグで、パラグアイ、ペルー、ボリビアと同組に入った。
そして
ペルー戦 2対3
パラグアイ戦 0対4
ボリビア戦 1対1
と2敗1分で敗退した。
中山雅史は、大会直前のルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術を受けた。
失明寸前の重傷で
「復帰まで1年近くはかかる」
と医師にいわれたが2ヵ月で復帰。
その後も手の骨折などケガに苦しみながらも、清水エスパルスとのチャンピオンシップで2ゴールを挙げジュビロ磐田の制覇に貢献。
11月、Jリーグ選手協会副会長に就任。
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2000年1月、約1ヵ月のオフが終わり、選手はチームに戻った。
多くの選手は脂肪を増やしていたが、中山雅史も体重が1㎏増えていたが7%だった体脂肪率は0.2%減っていた。
オフの間に脂肪を減らして筋肉の量を増やしていた。
「勝負に100%の状態で臨みたい。
そのためにウォームアップをしっかりやりたい。
いいウォームアップをするためにストレッチを十分にやりたい。
いいウォームアップ、ストレッチをやるためにコンディションを整えておきたい。
天才は感覚で準備の方法を変える。
あるいはまったく準備をしなくても試合に入ることができるが僕にはできない。
だから走る。
コンディションを整え、いいストレッチ、いいウォームアップをして100%で勝負に挑むために、毎日走る。
もしかしたらやり続けることで安心したいのかもしれない。
それが僕の弱さかもしれないとも思うが、でも走らないと気持ちが落ち着かない。
昨日の夜から今日走ることを考えていた。
今日の夜、明日走ることを考える。
明日の終わりに明後日走ることを考える。
疲れていても雨が降っていても走りたくなくても走る」
32歳の中山雅史の体力はまだ上昇していた。
筋力、持久力など、ある特定の能力が突出しているのではなく、ジュビロ磐田が定期的に行う15項目のフィットネステストですべてがチームトップレベルだった。
2月16日、アジアカップ予選のブルネイ戦で、試合開始3分15秒で3点を入れハットトリック。
国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された。
2000年シーズンは、故障や、日本代表からも外されるなど不本意なことも多かったが、20得点で2回目のJリーグ得点王となった
2001年、ジュビロ磐田のキャンプ中に行われた持久力テストで、2年目の前田遼一がトップの数字を出した。
すると33歳の中山雅史は、負けん気だけでその数字を上回ってみせた。
そして前年からの好調を続け、日本代表にも復帰した。
ジュビロ磐田は第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位。
しかしチャンピオンシップで鹿島に敗れ、ナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦で敗れ、無冠に終わった。
11月、中山雅史は井原正巳の後を継いで3代目Jリーグ選手協会会長となった。

ワールドカップ日韓大会 日本代表のワールドカップ初勝利

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2002年、日本代表監督となったフィリップ・トルシエは、35歳の中山雅史を代表候補合宿に招集した。
しかしJリーグ開幕後、わずか1得点と不調の中山雅史は、海外遠征メンバーから外された。
5月14日、ノルウェーとの親善試合で日本代表は0対3で完敗。
5月17日、フィリップ・トルシエ監督は、最終登録メンバーに34歳の中山雅史と31歳の秋田豊を加えることを発表。
こうして中山雅史は、アメリカ大会、フランス大会、日韓大会と4年に1度行われるワールドカップ3大会連続出場を決めた。
背番号は10だった。
中山雅史の普段から高いモチベーションはさらに上がった。
チームの先頭に立って体を動かし声を出し続けた。
たとえ体が痛んでも、いつも
「痛い」
というときの傷みを100とすれば150の傷みでも
「全然大丈夫」
といった。
2002年6月14日、大阪の長居スタジアムで、ワールドカップ日韓大会グループリーグH組、日本 vs チュニジア戦が行われた。
後半30分、右サイドから市川大祐がセンタリング。
中田英寿がダイビングヘッド。
ボールはゴールキーパーの股間を抜け、日本代表のH組1位での決勝トーナメント進出が決まった。
その瞬間、ウォームアップをしていた中山雅史は拳を握り両腕を突き上げた。
秋田豊、服部年宏、三都主アレサンドロ、福西祟史、西澤明訓、小笠原満男らもウォーミングアップを中断し、翼を広げた中山雅史の下に集まった。
そして輪になって肩を組んで跳びはね、喜びを爆発させた。
ひとしきり騒いでから中山雅史がいった。
「よし、ここからだ。
油断せずいこう」
10秒ほどで輪は解けた。
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6月9日、横浜国際総合競技場で日本 vs ロシア戦が行われた。
前半は0対0.
後半6分、稲本潤一がゴール。
後半15分、ペナルティエリアにドリブルで迫る稲本潤一にロシアが確信的ファウル。
中田英寿はフリーキックを外した。
そのボールが外れたロシアゴールの裏では、背番号18をつけた中山雅史がウォーミングアップをしていた。
10分後、ベンチに呼び戻され、トルシエ監督は中山雅史に耳打ちされた。
「守るために入ってもらうんじゃない。
相手の裏を狙ってほしい」
後半27分、中山雅史がピッチに入った。
ロシアディフェンダーに激しくプレスをかけコーナーキックを獲得。
後半46分、後方からのスライディングタックルで中山雅史に警告。
直後、レフリーのホイッスルが試合終了。
日本代表のワールドカップ初勝利が決まった。
「ナカヤマはこのチームのシンボルだ。
誰もが彼に畏敬の念を抱いていた。
ピッチに立てば仲間たちの闘争心を掻き立て、練習でもいいムードをつくってチームをいい方向へ導いてくれた。
彼が他の選手に与えた影響は計り知れないほど大きい。
ナカヤマは不可欠な存在だと認識させられた」
(フィリップ・トルシエ)

やるしかない。絶対に下を向かない。

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2002年シーズン、16得点でリーグ2位の中山雅史とリーグ得点王の高原直泰のコンビはゴールを量産し、ジュビロ磐田はJリーグ史上初の両ステージ制覇で完全優勝した。
2003年、中山雅史はJリーグ開幕前日の左大腿の裂傷を皮切りに重いケガが続いた。
6月には下腹部にそれまで経験したすべての痛みを上回る激痛に見舞われ、1歩も動けなうなり車椅子で病院に運ばれた。
10年ぶりのグローインペインシンドローム(鼠径部周辺痛症候群)だった。
結局このシーズンはほとんどをリハビリに費やした。
長年の過負荷のリバウンドだった。
「1度、ゆっくり休めば・・・・」
そう勧められても中山雅史はサッカーから離れることを嫌った。
「サッカーをやるためにはリハビリをやるしかない」
「やるしかない。
がんばるぞ」
「今悪いということはこれから必ず良くなるということだ」
「絶対治る」
と絶対に下を向かなかった。
サッカーのために100%の努力を続ける。
当たり前のことだが実は1番難しいことを中山雅史は継続し続けた。
半年のリハビリの末、復帰。
復帰初戦、東京ヴェルディ1969戦で中山雅史がユニホーム姿になると場内が騒然とした。
「あれは異様な雰囲気だった」
(東京ヴェルディ1969DF:米山篤志)
「当初はこの試合では起用しないつもりだった。
エリア内では仕事をするのでそこに賭けた」
(ジュビロ磐田の柳下正明監督)
中山雅史投入直後のコーナーキックで同点に追いつき、その勢いのまま逆転勝利した。
ジュビロ磐田は、横浜F・マリノスに敗れリーグ優勝は逃したが、天皇杯ではヤマハ発動機時代以来の優勝を果たした。
 (2197245)

2007年、内山篤がジュビロ磐田の監督となった。
内山篤はいつも誰よりも早くクラブハウスに入った。
そして玄関を通る選手を監督室のモニター越しにみていたが、自分の次にやってくるのはいつも中山雅史だった。
40歳の中山雅史は出会った頃とまったく同じだった。
「もっとうまくなりたい」
といつも全力でプレーしていた。
「ゴンの中には、常に100%でやり続けたからここまで来られた、やり続ければもっとよくなるという思いがある。
だからどうすればやりすぎを抑えられるのか、よく頭を抱えました。
全然抑えてくれないんだ。
わかりましたと口ではいうけれど・・・」
(内山篤)
8時半、クラブハウスに入った中山雅史はトレーナーによるコンディションチェック、ストレッチ、ホットパック、マッサージを受け、練習の準備をする。
そして練習が終わるとすぐにアイシング。
昼食を挟み、15時、午後の練習のに備えて再びストレッチ、ホットパック、マッサージ。
誰よりも早くグラウンドに入り、誰よりも前を走り、誰よりも懸命に練習した。
練習後、治療とマッサージを受けると21時を過ぎた。
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