世はバブル景気!当時のバリバリのエピソード!?
「結局大学生になると1、2年の頃はチャランポランだったかな~。テニスサークルに入ってイッキ飲みをしまくってみたいな。ホント典型的な当時の大学生でした(笑。」
「まさにバブルを謳歌してました。当時の仲の良い友達が後のジュリアナ東京のチーフDJになったりしてました。そういう自由な時代でしたよほんとに。」
「まさにバブルを謳歌してました。当時の仲の良い友達が後のジュリアナ東京のチーフDJになったりしてました。そういう自由な時代でしたよほんとに。」
「中学・高校の頃は、週に何日かは東京に出て遊んでました。でも地元に帰ると結構普通に部活やってっていう感じですね。陸上部とか入って。ただ世代的には不良が多い世代でした。金八先生の第2シリーズ全盛の時代だったんで校内暴力とかもすごかったし。」
-制服は短ランボンタンですか、それとも長ランドカンですか?
「残念ながら、そういうのは着ませんでしたね。僕はパンクファッションっていう、当時流行っていた細身のズボンでサスペンダーをしてましたね。原宿の古着屋とか行って買ってました。」
「母親が渋谷生まれ渋谷育ちで母の実家が渋谷にあったので、週末になるとおばあちゃんちのほうに行って、いつも泊まってました。で土日は地元の友達がロッケンローラー族のチームに入って踊っていたりしたので、原宿のホコ天に遊びに行って、僕はローラー族じゃないんでお話だけして帰ってくるみたいな。タケノコ族とかもまだ残党がいましたね(笑。」
「母親が渋谷生まれ渋谷育ちで母の実家が渋谷にあったので、週末になるとおばあちゃんちのほうに行って、いつも泊まってました。で土日は地元の友達がロッケンローラー族のチームに入って踊っていたりしたので、原宿のホコ天に遊びに行って、僕はローラー族じゃないんでお話だけして帰ってくるみたいな。タケノコ族とかもまだ残党がいましたね(笑。」
まさに当時をリアルタイムに体感されていた堀田先生のコメントが躍動します。
そんななか、スタッフの方からツッコミが…!
そんななか、スタッフの方からツッコミが…!
先生それより。デートにほら、もう二度と来てもらえなかったってお話を…。
-え!?
「ああそうそう。当時は音楽としてもファッションとしてもヘビメタとか流行ってたしパンクスも流行ってましたよね。そういう意味じゃ僕も例外なくそういう格好してました。服のあちらこちらに鋲や鎖がじゃらじゃらついていて、背中に安全ピンも200個くらいついて、そのうえ昔の軍隊のマークの腕章が付いていたり。それって僕のライブ衣装の一張羅だったんで、それを着てデートに行ったんですよ。そしたらその子、二度と会ってくれなくなっちゃって(笑。」
向こうからデートしたいって言ってきたのに(笑
「髪型はそこまで派手じゃなくて、――ちょっと立ってるくらいチェッカーズみたいな頭だったんですけど。でも自分はロッケンローラーだという意識があるから、チェッカーズの格好はしないんですよ。だからなのか極端なほうに走っていくんですよね、間違えられちゃイヤだから。で、いき過ぎた結果ドクロのシャツとか着ちゃったりね(笑。」
ファッションの話からクールスにあぶ刑事。
もはや目の前でインタビューしているのが大学教授とは思えない話の展開です。
もはや目の前でインタビューしているのが大学教授とは思えない話の展開です。
「結構そういう意味では高校でも大学でも異端児というか、変わってましたね。大学院に入学した時の写真が最近でてきたんでフェイスブックにアップしたんですけれども、こんな格好で大学院入学してるの僕だけでしたからね」
「本当のアメリカ人はしないという、日本流「アメカジ」でした。当時シカゴ大学って全米でトップ3に入るぐらいの学校だったんですけどこんな格好で日本から来てる奴なんてひとりもいなかったから最初はすごくいろいろ言われました。」
「本当のアメリカ人はしないという、日本流「アメカジ」でした。当時シカゴ大学って全米でトップ3に入るぐらいの学校だったんですけどこんな格好で日本から来てる奴なんてひとりもいなかったから最初はすごくいろいろ言われました。」
修士過程のつもりが博士課程??
-ここで改めて、高3で音楽でのメジャーデビューを断念してからアメリカに赴くまでをお話しいただけませんか?
「音楽事務所の名前は出せませんけれど、かつてモンスターユニットを数多く生んだ某音楽事務所でして、そこに入って頑張ってたんですけど層が厚くて。ここでは多分僕のチャンスは無いなと判断して辞めました。」
「普通に大学に行って勉強していたらなんか海外に行く道が開けたんです。当時は高校の先生とか中学の先生になりたいなと思って英語教師としての箔を付けにアメリカに行ったんですよ。」
「そしたら、そこで人生最大の勘違いが起きまして、修士課程に入って1年で帰ってくるつもりが修士課程なんてシカゴ大学にはなかったんですよ。なんと、間違って博士課程に入っちゃってたんです。だから1年で帰ることが出来なくて、周囲のすすめもあって、仕方がないので博士号を取って帰国したら大学の先生になることになったっていうとんでもない方向転換というか、勘違い(笑。」
「思い立ったら一直線に走ってしまうタイプの人間なのでよく分からずに進んで行っちゃうわけですよ。何も考えないで行ってるから、状況を理解出来た時には、もう時は既に遅しで。ヤバい間違えた!もうやるしかない!!ってまた突き進んで行ったら此処にいた、みたいなとこありますね(笑。」
「普通に大学に行って勉強していたらなんか海外に行く道が開けたんです。当時は高校の先生とか中学の先生になりたいなと思って英語教師としての箔を付けにアメリカに行ったんですよ。」
「そしたら、そこで人生最大の勘違いが起きまして、修士課程に入って1年で帰ってくるつもりが修士課程なんてシカゴ大学にはなかったんですよ。なんと、間違って博士課程に入っちゃってたんです。だから1年で帰ることが出来なくて、周囲のすすめもあって、仕方がないので博士号を取って帰国したら大学の先生になることになったっていうとんでもない方向転換というか、勘違い(笑。」
「思い立ったら一直線に走ってしまうタイプの人間なのでよく分からずに進んで行っちゃうわけですよ。何も考えないで行ってるから、状況を理解出来た時には、もう時は既に遅しで。ヤバい間違えた!もうやるしかない!!ってまた突き進んで行ったら此処にいた、みたいなとこありますね(笑。」
のめりこんだ学問「言語学」と「法学」
-音楽の道を諦めて、次にのめりこんだ道がそのまま今に繋がったという…。
シカゴ大の大学院時代。
この時はまだ修士課程に入るつもりで、
博士課程に間違えて入ってしまっていた
ことに気づいていない。」
※堀田先生のフェイスブックより引用