あなたは何人、歴代の「サッカー日本代表監督」を覚えているかな??②【1980年代前半~1990年代後半】
2018年4月19日 更新

あなたは何人、歴代の「サッカー日本代表監督」を覚えているかな??②【1980年代前半~1990年代後半】

「あなたは何人、歴代の「サッカー日本代表監督」を覚えているかな??①【1960年代~1980年代初期】」の続編です。若い読者の方には、そろそろ見覚えのある歴代監督たちが登場してくると思われますので、こうご期待下さい。

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「浦和レッズ生みの親」と称されている森 孝慈

森 孝慈 元サッカー日本代表監督(1981-1985)

森 孝慈 元サッカー日本代表監督(1981-1985)

森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - 2011年7月17日)は、広島県福山市出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF。サッカー日本代表として56試合に出場し、1968年のメキシコシティオリンピックで銅メダルの獲得に寄与した。

広島・修道高校、早稲田大学を経て三菱重工入り。知的なプレーぶりは指導者向きと、長沼健ら日本サッカー協会(JFA)幹部から早くから見込まれ、現役引退後はJFAの指導者としてエリートコースを歩むことになる。
1980年10月、渡辺正日本代表監督が病気で倒れたため、予定より早く同年11月、川淵三郎監督下でコーチに就任した。川淵は強化部長兼任で名目上の監督、事実上チームの指揮は森が担った。1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選の敗退で、翌1981年4月からは川淵の後を受け日本代表監督に就任、アマからプロへの端境期だった1980年代に一時代を築く。1985年、FIFAワールドカップメキシコ大会アジア予選最終戦では惜しくもワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが、韓国に敗れ本大会出場を逃した責任を取り代表監督を辞すが、着実に日本の競技力を引き上げ、進むべき道を示した。日本代表監督在任中の通算成績は22勝5分16敗(随分まともな成績になっていますね・・・??)。勝率=51.16%。

1992~93年浦和レッズ監督、1995~97年横浜マリノスGM、1998年アビスパ福岡監督、1999~2001年同GM、2001~06年浦和レッズGM。

フジタ工業を栃木県4部リーグから僅か4年でJSL1部に昇格させる離れ業を実現させた石井 義信

石井 義信 元サッカー日本代表監督(1986-1987)

石井 義信 元サッカー日本代表監督(1986-1987)

石井 義信(いしい よしのぶ、1939年3月13日 - )は広島県福山市出身の元日本代表サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはMF。元フジタ工業(旧、藤和不動産/現、湘南ベルマーレ)監督、元日本代表監督。2001年よりFC東京アドバイザー。
1975年、元フジタ工業(旧、藤和不動産/現、湘南ベルマーレ)の監督を引き受け、栃木県4部リーグのスタートから僅か4年でJSL1部に昇格させ、1977年シーズンを史上最多得点(64得点)でJSL1部を初制覇すると1979年も優勝。1977年と1979年には天皇杯も2度制覇した。
フジタでの手腕を買われ、1986年日本代表監督に抜擢される。異例の抜擢だったため当初は固辞していたものの、岡野俊一郎から熱心に口説かれたのだという。1987年、ソウル五輪・最終予選に進出するも、中国に1勝1敗ながら得失点差で予選通過ならず。オリンピック本大会には攻撃的なチームで臨む構想を持っていたものの、急遽の監督就任で石井には十分なチーム作りの時間が無かったことや予選突破のための信念から、当時日本最高のプレイヤーと言われた木村を外して、守備的で面白くないサッカーをやった上での敗退には大きな批判を浴びて、大会終了後に代表監督を辞任した。日本代表監督在任中の通算成績は11勝2分4敗(もしJリーグのチームの監督に就任していたら、今よりもっと名を馳せていたに違いない・・・??)。勝率=64.71%。

ファンによる解任署名運動も起こってしまった不運の監督!!

横山 謙三 元サッカー日本代表監督(1988-1991)

横山 謙三 元サッカー日本代表監督(1988-1991)

横山 謙三(よこやま けんぞう、1943年1月21日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはGK。現日本オリンピアンズ協会理事。埼玉県立川口高校、立教大学を経て三菱重工入り。終始安定したセービングと分析力でゴールを守り、東京オリンピックのベスト8、メキシコオリンピックの銅メダル獲得に貢献。
1976年から三菱重工の監督に就任、1978年には日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯と当時の3冠を全て制覇した。
1988年からは日本代表の監督に就任。当時の世界最先端である3-5-2システムを採用し、ウイングバック(両サイドのMF)を攻撃の基点とする戦術を採ったが、ワールドカップイタリア大会アジア予選は1次予選敗退という結果となった。前回大会を下回る結果にサッカーファンの不満が高まり、ファンによる解任署名運動やスタジアムにおける解任を要求する横断幕の掲示が行われたが、その地位に留まり続けた。その後、総監督としてU-23代表を率い1992年3月のバルセロナ五輪アジア最終予選に挑むが惨敗を喫し、遂に辞任する結果となった。
この前の森監督時代はW杯予選決勝進出、石井監督時代は五輪出場まであと1勝と迫っていただけに、W杯アジア地区予選の1次予選であっさり敗退してしまったことに、結果として逆行しており、ファンを失望・落胆・激怒させたのも無理はなかった。日本代表監督在任中の通算成績は5勝7分12敗(数字的に見てもやはり酷いものです!!)。勝率=20.83%。

ご存知、ドーハの悲劇の指揮官、ハンス・オフト 元サッカー日本代表監督!!

ハンス・オフト 元サッカー日本代表監督(1992-1993)

ハンス・オフト 元サッカー日本代表監督(1992-1993)

ハンス(Hans)の愛称で知られるマリウス・ヨハン・オフト(Marius Johan Ooft、1947年6月27日 - )は、オランダ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFW。ドーハの悲劇時の日本代表監督。
オランダ協会の育成部門でユース年代の指導や指導者養成にあたっていた1980年、ヨーロッパに遠征中の高校日本選抜チームを指導したことが縁となり、1982年7-8月にヤマハ発動機のコーチとして来日。短期間でチームの再建を図り、ヤマハを、日本サッカーリーグ2部優勝、1部復帰とともに天皇杯初優勝に導いた。1984-88年には、マツダを率いてJSL1部昇格、天皇杯準優勝の結果を残した。
そうした実績が評価され、1992年3月、「日本をワールドカップに出場させること」を目標に掲げ、日本代表監督に就任。「アイコンタクト」「トライアングル」「コンパクト」などの言葉を用いて、現代サッカーに必要な基礎技術を徹底、代表のみならず日本サッカー界に広く浸透させ、日本のスタイルの礎を築いた。同年8月には、第2回AFCダイナスティカップで優勝し、1930年極東選手権以来の公式国際大会タイトルを獲得。続く10月には、第10回AFCアジアカップ(広島)で優勝、日本代表チームを、悲願であった初のアジア王者へと導いた。翌1993年10月のワールドカップアジア最終予選では惜しくも初の本大会出場を逃した(ドーハの悲劇)が、初の外国人監督(実際は2人目)として、1年半足らずで、選手の力を最大限に引き出し、代表チームを確実にレベルアップさせた。それまで日本が乗り越えられなかったアジアの壁を打破し、日本をアジアの強国に押し上げ、その地位を強固なものにした功績は計り知れない。日本代表監督在任中の通算成績は17勝6分4敗(オフトマジックを数字的に表すとこうなるんですね・・・??)。勝率=62.96%。

1993.10.28 【ドーハの悲劇】〔ノーカット〕

これを未だにGK松永の責任にする奴が多いんだが、センタリングをほぼフリーでヘッドさせ、軌道もGKが反応しづらいコースに。センタリングを上げさせ、フリーでヘッドさせたDF陣が最大の元凶!!。
また時間稼ぎできず、ボールキープも出来ず中途半端に攻め上がって奪われた途中出場の選手達もとにかく酷かった。

理想と現実のギャップを埋められなかったパウロ・ロベルト・ファルカン

パウロ・ロベルト・ファルカン 元サッカー日本代表監督(...

パウロ・ロベルト・ファルカン 元サッカー日本代表監督(1994)

パウロ・ロベルト・ファルカン(Paulo Roberto Falcão、1953年10月16日 - )は、ブラジル・サンタカタリーナ州出身で、元同国代表のプロサッカー選手、サッカー指導者。元日本代表監督。現役時代のポジションはMF。1970年代後半から1980年代中期のブラジルを代表するボランチ。下がり目の位置から放つ正確なロングパスを駆使して中盤を操り、機を見て前方へ進出しミドルシュートを放つ、またトリッキーなパスを使って攻撃に変化を与えることを得意とした。ブラジル代表では1976年に代表デビューを飾り、当初は攻撃的MFとしてプレーしていたため、ジーコの控えであったが、1982年ワールドカップでは、ボランチとしてジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾとともに黄金のカルテットを形成した。

サッカー史上最高のボランチはこいつだ! ブラジル代表・ファルカン スーパープレイ集

「黄金のカルテット」の司令塔としては勿論のこと、「ローマ8代皇帝」と崇められたASローマ時代のプレーは、サッカーファンの記憶に深く残るところだ。
オフト監督の次に代表監督になったファルカンは数年後を睨み、オランダ2部SBVエクセルシオールから帰国した小倉隆史や前園真聖ら多くの若手選手を代表に抜擢するも、前任代表監督であるハンス・オフトの細かい戦術的指揮から、ほぼ選手の自主性に任せたファルカンの指導法に選手らが戸惑い、「オフトと違う」と監督としてのファルカンを疑問視する声が出始めた。
そして、就任直後のキリン杯においてフランス代表に惨敗、広島で行われたアジア大会準々決勝で韓国代表に敗れると、これらの責任を問われ解任された。敗戦後に会場を去るとき、サポーターの一人に「ブラジルに帰れ。二度と来るな」と叫びながら空き缶を投げられるも、「日本にも一人だけ本物のサポーターがいたな」と話したそうだ。代表監督としてはわずか7カ月あまりとかなり短い期間でした。日本代表監督在任中の通算成績は3勝4分2敗(ブラジルみたいな個人技は日本にはないもんな・・・??)。勝率=33.33%。

日本人としては初となる「プロ」サッカー監督になった加茂 周

加茂 周 元サッカー日本代表監督(1994-1997)

加茂 周 元サッカー日本代表監督(1994-1997)

加茂 周(かも しゅう、1939年10月29日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、元サッカー日本代表監督。
兵庫県立芦屋高校でサッカーを始め、関西学院大学を経て、ヤンマーディーゼルに入社。1967年に同部のコーチとなり、1969年に日本で開催された「第1回FIFAコーチングスクール」を受講。スクールマスターだったデットマール・クラマーの薫陶を受け、プロコーチになることを志す。
1974年に当時、神奈川県リーグだった日産自動車(現・横浜F・マリノス)の監督に就任。その後、チームを日本サッカーリーグ(JSL)1部に昇格させると、1983年度の天皇杯全日本選手権で初優勝。1988/89年シーズンには、JSL、JSLカップ、天皇杯優勝の三冠を達成した。また、マネジメント専門家の養成、選手のプロ化(契約選手化)の促進、ワールドクラスの選手の獲得など、チームマネジメントの面でも手腕を発揮し、チームの環境改善に努めた。
日本代表監督には、いくつものクラブチームで好成績を残していた加茂周に白羽の矢が立ち、ファルカン氏の解任後、12月に代表監督に就任し、次のワールドカップ予選を戦うチーム作りを担っていましたが、1997年に開催されたFIFAワールドカップ・アジア予選での成績が芳しくなく、現地で解任される異例の事態となった。ホームゲームの日韓戦で1-2の逆転負けを喫してしまい、一騎に加茂批判の声が高まったのが主な原因!!。とにかく古今東西、日本も韓国も日韓戦が監督の命を左右するのだ!!。日本代表監督在任中の通算成績は24勝8分14敗(日韓戦で勝っていれば、他の3試合に負けても良い位だったもんな・・・??)。勝率=52.17%。
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今週の月曜日(2018年4月9日)に、日本サッカー界は勿論、スポーツ界に衝撃が走った。日本サッカー協会は電撃的にサッカー日本代表監督のハリルホジッチ氏をその職から解任したのだ。W杯までにわずか2ヶ月あまりしか残っていないこの時期にである。お隣の国、韓国や中東などの国ではこのような”電撃解任”事は多々あったが、日本では大変めずらしいことだ。
知っているかな?「日本サッカーの父」呼ばれた日本代表監督を!!

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昨日(2018年4月9日)、日本のサッカー代表監督だったハリルホジッチ氏が電撃的にその職を解任され、日本サッカーはどうなるのか?と内心心配でたまらないのだが、かつて1960年代、今よりももっと酷い状況で日本のサッカーを栄光の道へと導いた「日本サッカーの父」と呼ばれた名監督がいたことをご存知だろうか?こんな状況で彼のような名監督が再来してほしいと願うばかりだ。

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