今も昔も政治家の不祥事は変わらず==「黒い霧解散」!!
今も”モリカケ”問題などで、自民党の支持率が低下しているが、過去にも同じような問題・事件が相次ぎ起こったことがあった。
1966年後半、自民党を中心に相次いで発覚した不祥事で、一連の事件で自民党への国民の信頼は失墜し永田町を「黒い霧」が覆っていると批判されたのだ。
10月20日、当時の佐藤栄作首相は衆議院予算委員会で綱紀粛正を所信表明。11月16日、自民党綱紀粛正調査会、「黒い霧」疑惑の調査結果をまとめる。
12月1日、自民党総裁選で佐藤首相は再選されるが、対立候補の藤山愛一郎が予想外の善戦で注目を浴びる。12月3日、佐藤が内閣改造、福永健司と宮沢喜一を起用して旧池田派を取り込む。党人事では、幹事長の田中角栄を福田赳夫に替えた。
その後低下した求心力を回復するため、佐藤内閣は12月27日に第54回国会が召集された初日に衆議院を解散した。日本国憲法下における召集時解散はこれが初めてであり、第54回国会は1日だけの会期となった。この解散を「黒い霧解散」と呼ぶ。
何か今の状況とそっくりだと思いませんか??!
1966年後半、自民党を中心に相次いで発覚した不祥事で、一連の事件で自民党への国民の信頼は失墜し永田町を「黒い霧」が覆っていると批判されたのだ。
10月20日、当時の佐藤栄作首相は衆議院予算委員会で綱紀粛正を所信表明。11月16日、自民党綱紀粛正調査会、「黒い霧」疑惑の調査結果をまとめる。
12月1日、自民党総裁選で佐藤首相は再選されるが、対立候補の藤山愛一郎が予想外の善戦で注目を浴びる。12月3日、佐藤が内閣改造、福永健司と宮沢喜一を起用して旧池田派を取り込む。党人事では、幹事長の田中角栄を福田赳夫に替えた。
その後低下した求心力を回復するため、佐藤内閣は12月27日に第54回国会が召集された初日に衆議院を解散した。日本国憲法下における召集時解散はこれが初めてであり、第54回国会は1日だけの会期となった。この解散を「黒い霧解散」と呼ぶ。
何か今の状況とそっくりだと思いませんか??!
via www.jiji.com
自民党反主流派の造反で内閣不信任案が可決され、「ハプニング解散」!!
少し前にも、野党が安倍首相に対して内閣不信任案(総理大臣として信用出来ないから辞任しろという要求の事)を提出していた記憶があるのですが、野党は不信任案が可決されるなんて最初から思っていないのが実際の本音のようだ。なぜなら、与党の人数が圧倒的に多いのだから多数決で否決されるに決まっているから・・・。
内閣不信任案の意味は「野党もしっかり仕事をしてますよ」という国民へのアピールという側面があるのだ。
1980年答辞に日本社会党を中心とする野党が提出した太平首相に対する不信任案もそのような状況でしたが、現在と比べ違う状況としては、与野党の議席差がそんなにないことだった。そして、自民党の派閥が党本部より優先する力関係にあったのだ。
”三角大福中”の争い
佐藤栄作元首相の後、自民党には5人の派閥の領袖(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘)による権力闘争が段々と過激になり、それぞれの派閥が合従連衡を繰り返し、1979年の首相指名選挙にまで争いが飛び火し、同じ自民党の大平正芳と福田赳夫が争うという前代未聞の出来事が起こった。
この自民党の権力闘争による内紛の影響で日本社会党の飛鳥田一雄委員長が中心とする野党の内閣不信任案に自民党の反主流派(福田派、三木派)を中心に自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、結局69人が本会議を欠席しまう。これにより内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決となってしまったのだ。
内閣不信任案の意味は「野党もしっかり仕事をしてますよ」という国民へのアピールという側面があるのだ。
1980年答辞に日本社会党を中心とする野党が提出した太平首相に対する不信任案もそのような状況でしたが、現在と比べ違う状況としては、与野党の議席差がそんなにないことだった。そして、自民党の派閥が党本部より優先する力関係にあったのだ。
”三角大福中”の争い
佐藤栄作元首相の後、自民党には5人の派閥の領袖(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘)による権力闘争が段々と過激になり、それぞれの派閥が合従連衡を繰り返し、1979年の首相指名選挙にまで争いが飛び火し、同じ自民党の大平正芳と福田赳夫が争うという前代未聞の出来事が起こった。
この自民党の権力闘争による内紛の影響で日本社会党の飛鳥田一雄委員長が中心とする野党の内閣不信任案に自民党の反主流派(福田派、三木派)を中心に自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、結局69人が本会議を欠席しまう。これにより内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決となってしまったのだ。
大平正芳元首相
大平 正芳(おおひら まさよし、1910年(明治43年)3月12日 - 1980年(昭和55年)6月12日)は、日本の大蔵官僚、政治家。池田勇人の秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交回復に貢献。四十日抗争やハプニング解散で消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名がある。
大平正芳元首相はアーウーが耳障りではあったが、アーウーを除けば的確な答弁をしていたとされる。言語明瞭意味不明とは一味違っていたようである。
大平正芳元首相はアーウーが耳障りではあったが、アーウーを除けば的確な答弁をしていたとされる。言語明瞭意味不明とは一味違っていたようである。
via www.ohira.or.jp
via archive.fo
総選挙の結果も前代未聞だった!!
太平総理は不信任案の可決により辞任。衆議院は解散されたのだ。
慌てたのは野党だった。
まさか、総理が辞任して解散になるとは考えていなかったため選挙対策など全く怠っていたのだ。
そして、大平首相の総選挙序盤で急死するという緊急事態が起こり、それを受けて自民党主流・反主流両派は一転して融和・団結し弔い選挙の様相を見せて選挙戦を進めた。22日の投票で自民党は衆参両院で地すべり的大勝を収め、不信任案を提出した野党、特に公明党は大敗を喫した。これで6年間続いた衆参両院における与野党伯仲状態は完全に解消した。大平の死と引き換えに得た大勝利であった。
内閣不信任案もむやみに提出するもんではない!!
慌てたのは野党だった。
まさか、総理が辞任して解散になるとは考えていなかったため選挙対策など全く怠っていたのだ。
そして、大平首相の総選挙序盤で急死するという緊急事態が起こり、それを受けて自民党主流・反主流両派は一転して融和・団結し弔い選挙の様相を見せて選挙戦を進めた。22日の投票で自民党は衆参両院で地すべり的大勝を収め、不信任案を提出した野党、特に公明党は大敗を喫した。これで6年間続いた衆参両院における与野党伯仲状態は完全に解消した。大平の死と引き換えに得た大勝利であった。
内閣不信任案もむやみに提出するもんではない!!
安部晋三首相の大叔父にあたります。