南部虎弾は元ダチョウ倶楽部
かつて近藤芳正も所属していたコント集団「キムチ倶楽部」で3人は出会い、南部虎弾と4人でダチョウ倶楽部を結成した。
その後、ダチョウ倶楽部は、西のダウンタウン、東のダチョウ倶楽部と言われるも南部が脱退すると仕事が激減。
ダチョウ倶楽部の全身であるキムチ倶楽部は元々、20名の集団だった。しかし、新人コンテストに出る時には集団が崩壊していて、連絡が繋がったのが、今のダチョウ倶楽部の3人と南部虎弾だったと話した。
結成当時はダチョウ倶楽部は大人気だった。しかし、南部虎弾は派手な格好でツッコミをやると言い出し脱退したという。
via pds.exblog.jp
これまで決して語られることのなかったダチョウ倶楽部との関係も少しだけ明かしている。
「ダチョウとのことはカッコ悪いから誰にも言わなかった。
でもクビになった後で一回だけ、たけしさんの『スーパージョッキー』の熱湯CMで共演する機会があって。ところがオレが湯船に入ったとき、3人の誰かにヒシャクで熱湯を背中にかけられてさ。
真っ赤に腫れ上がって後の競馬場での営業ができなかったほど。
普通なら殴り合いだけど、テレビカメラの前だったから自分の胸に収めたんだ。
誰が熱湯をかけたのか、もちろんオレは知ってるけどね」
決して、円満にグループを脱退したようではないですね!
う~ん、どちらも身体を張る芸ですが、張り方と目的が全然違いますよね。
う~ん、どちらも身体を張る芸ですが、張り方と目的が全然違いますよね。
スターウォーズ出演!?
『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』は、出演騒動があったことからも印象的です。
1997年頃、TOKYO SHOCK BOYSの公演で渡米した時、ルーカス監督の秘書の方と知り合いだった友だちがいて 「応募しておいてあげたよ」と言われたんですよ。
秘書の方からも「あなたからの応募なら受けます」という 英語の手紙を頂いたものの音沙汰はなく、その後、オーストラリア公演の時にニュースを見た奥さんから 「おめでとう! スター・ウォーズ出るんだよね!」と電話がかかってきて(笑)。
結局、出演は果たせませんでしたが、公開前後は「ひょっとすると写真だけでもちらっと出ているかな」と ワクワクしていました。
海外での反応
下記の著書発売に際してのインタビューで、南部虎弾がいいこと言ってます!
失敗して学び続けないと、世界では通用しないんですね。
失敗して学び続けないと、世界では通用しないんですね。
「確かに世界中で公演してるけど、スタンディング・オベーションを一度も受けたことがない。
ニューヨークのMSGで黒人のイベントに出演したとき、客席からカンやらビンやら投げられてさ。
でもね、その客たちが終わったら“悪かったな、応援するゼ”って言ってくれて。向こうじゃブーイングがあいさつだって気付いたんだ。
後々そういう痛みが糧(かて)になっていくわけ。ワザと失敗しようとは思っちゃいないけど、失敗を重ねることでしか世界には出て行けないんだよ」
公演
パフォーマーとしては異例の「FUJI ROCK FESTIVAL‘99」を皮切りに「SUMMER SONIC 2013」などへ出演し、精力的に活動。
2014年4月、東京では約5年ぶりとなる単独公演「デンゲキピック」を開催。
「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2014 in EZO」では2000人の観客が押し寄せるほどの人気があり、様々なジャンルで活躍している。
1991年、デーブ・スペクターの紹介によりLAの人気番組「ベスト・オブ・ザ・ワースト」に出演。これが世界進出のきっかけとなった。
TOKYO SHOCK BOYSという名がついたのもこの時で、「電撃ネットワークじゃ外国人は発音できないから」とデーブが命名した。
1992年、カナダの世界的コメディフェスティバル「ジャスト・フォー・ラーフス」からの招待をうけ出演、大成功を収める。以降、世界中から出演依頼が入るようになる。
1994年、オーストラリアにて全77公演。4万人を動員。
1995年、スコットランド、デンマーク、オランダ、ドイツ全36公演。
デンマークでは女王マルグレーテ2世の前でパフォーマンスを披露し、翌日の新聞に大々的に取り上げられる。
1997年、ニューヨーク・オフブロードウェイに進出。3ヶ月で71公演という日本人初の快挙を成し遂げる。
ニューヨークで3ヶ月71公演って凄いですね!
日本のテレビ向きじゃなかった事が、結局世界へ目を向ける機会にもなったのかも知れませんね。
日本のテレビ向きじゃなかった事が、結局世界へ目を向ける機会にもなったのかも知れませんね。