捜査から2年が経過、ついに犯人が浮上!!
まさかの長期戦となり、芸能界も事件解決を応援した吉展ちゃん事件。1965年3月には警視庁捜査一課の捜査本部が解散し、専従者による特捜班が設置されました。そして7月4日。特捜班は、賽銭泥棒などの前科者で以前より犯人候補として挙がっていた小原保(当時32歳)を逮捕しました。
こちらは当時の新聞報道。
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小原は当時、借金の返済などでお金に困っており、一方で事件直後に愛人に大金を渡すなど不自然な金の流れがあり捜査線上に浮上。逮捕後に「誘拐した日の夜に殺害し、寺の墓地に埋めた」などと自供し、埋めたとされる円通寺の境内から吉展ちゃんの遺体が発見されました。こうして事件は最悪の結末を迎え、日本中は悲しみに包まれたのです。7月5日の朝にNHKで放送された「ついに帰らなかった吉展ちゃん」は、関東地区で59.0%という驚異的な視聴率を記録しました。
当時のニュース速報。
1965年 7月4日 吉展ちゃん誘拐事件 犯人を逮捕
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事件が後世に与えた影響とは?
当時、国民の最大の関心事のひとつであった吉展ちゃん事件。前述の通り、日本初の報道協定が結ばれた事件でもありますが、一方で後世に多大な影響を残しました。人質の救出に失敗したことを重く見た警視庁上層部は、1964年に日本初の「誘拐捜査専門部隊」として捜査一課に特殊犯捜査係を設置。また同年、刑法の営利誘拐に「身代金目的略取」という条項が追加され、通常の営利誘拐よりも重い刑罰が科されるようになりました。さらに、確実な犯人逮捕のため、犯罪捜査における「電話の逆探知」が行えるようにもなりました。
また、犯人像を「40歳から55歳くらい」と誤ったプロファイリングをしてしまったことや、録音テープの音声解析について当時は技術が確立されていなかったことも反省点となり、技術向上を図る契機となりました。
「吉展ちゃん事件」の映画も製作される。
また、犯人逮捕後の1960年代後半から、吉展ちゃん事件を題材とした映画も何本か製作されています。逮捕直後の1965年にはドキュメンタリー映画「噫(ああ)!吉展ちゃん」が、翌1966年には事件を担当した刑事・堀隆次の手記を原作とした「一万三千人の容疑者」が公開。その後も1979年の土曜ワイド劇場の一作品「戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件」など、時代を超えて事件を題材とした作品が散発的に公開されています。
映画「一万三千人の容疑者」
逮捕後の小原保は?
犯行を自供した小原ですが、1966年の東京地裁での死刑判決以後、3回の公判を行うも翌1967年に最高裁にて死刑が確定。1971年12月、宮城刑務所で死刑が執行されました。享年38。ただ、当時小原を担当した弁護士が後年明かしたところによると、自白については「事実と違う点がある」とのこと。
吉展ちゃん事件において、小原のアリバイを崩して自供に至らせた刑事・平塚八兵衛。
小原は確かに吉展ちゃんを死なせてしまったのですが、それは「声を出されるのを恐れて口を押えたら死んでしまった」というのが真相であり、「殺すつもりで窒息死させたのではない」というのです。これが真実であるなら殺人ではなく傷害致死となり、当然量刑にも影響を与えます。しかしながら裁判では死刑が確定し、死刑が執行される際にも「真人間になったから平塚さん(平塚八兵衛)によろしく」と、死刑を受け入れていたことが推察できます。