90年代初頭、特大ヒット「それが大事」を放った大事MANブラザーズバンド!!
皆さんは「大事MANブラザーズバンド」というグループを覚えていますでしょうか?1991年に発表したシングル「それが大事」がミリオンセラーを記録したものの、その後はヒットに恵まれず「一発屋」の烙印を押されているバンドです。この記事では、普段あまり語られることのない彼らの「それが大事」以降の活動にスポットを当ててみたいと思います。
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背水の陣からヒットさせた「それが大事」
大事MANブラザーズバンドが結成されたのは1982年のこと。「埼玉のサザンオールスターズ」の異名を持ち、1991年1月にシングル「MO-RIO」でファンハウスからデビューを飾りました。しかし全くヒットせず、その後のセカンドシングル、ファーストアルバムも不調に。所属事務所から「この状況では危ない」と解雇をほのめかされる中、1991年8月に背水の陣で発表したのがシングル「それが大事」でした。
テレビ朝日系列の「スポーツフロンティア」のエンディングに起用され、とりあえずタイアップが付いた「それが大事」でしたが、当初はヒットせず。もはやこれまでかと思われたそのとき、今度はフジテレビ系列の「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」に起用されました。すると「それが大事」はオリコンチャートを急上昇していきます。そして1991年12月にはついにオリコンで1位を獲得。その後もランキング上位に入り続け、最終的にミリオンセラーを記録する特大ヒットとなったのです。
こちらは当時放送されていた「やまだかつてないテレビ」の一コマ。
「それが大事」で一躍人気グループとなるも…
「それが大事」の成功により、一躍人気グループの仲間入りを果たした大事MANブラザーズバンド。1992年4月にはシングル「うたをうたおう」を発表しました。これは「クレヨンしんちゃん」の初代エンディングテーマ曲であったのですが、オリコンでの最高位は22位、売上は4.2万枚と低迷。そして同時期、所属事務所とレコード会社がトラブルを起こし、ファンハウスから日本コロムビアへ移籍することとなります。
日本コロムビアへと移籍した大事MANブラザーズバンドですが、1992年7月発表のシングル「Bye・Love」はオリコン最高位78位とさらに低迷。その後は1993年2月に発表したシングル「キボウ」がオリコン44位に入る程度で、100位以内にすらランクインしなくなってしまいました。そして1995年6月に発表したシングル「最後の勇気」が、彼らの最後のシングルとなりました。
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1996年に解散。メンバーのその後は?
日本コロムビア時代には、10枚のシングル、4枚のオリジナルアルバムを発表した大事MANブラザーズバンド。その全てがヒットに結びつかず、またメンバーの脱退などもあり、1996年に解散することとなりました。解散により、「それが大事」の一発屋としてその歴史に幕を下ろすこととなった大事MANブラザーズバンド。その後はどのような道を辿ったのでしょうか?以下で詳しく見ていきましょう。
立川俊之(ボーカル)
ボーカルの立川俊之ですが、解散後はソロとして音楽活動を継続。2009年には「大事MANブラザーズオーケストラ(オリジナルメンバーは立川のみ)」を結成し、東京2009アジアユースパラゲームズの大会テーマ曲「それが大事〜完全版〜」を発表しました。また、2016年には「大事MANブラザーズ 立川俊之」としてミニアルバム「喜楽人生」を発表。「それが大事」のアンサーソングを収録しています。さらに、「しくじり先生」といったバラエティ番組への出演も話題となりました。