最強の柔道家
木村 政彦(きむら まさひこ、1917年(大正6年)9月10日 - 1993年(平成5年)4月18日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道七段。
全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、現在においても史上最強の柔道家と称されることが多い。
その荒々しい柔道スタイルから「鬼の木村」の異名を持つ
日本人で最強って誰だろうと考えると、必ず候補に挙がる男。
それが木村政彦だ。数々の伝説に裏打ちされたエピソードが語る、その男を見よ。
それが木村政彦だ。数々の伝説に裏打ちされたエピソードが語る、その男を見よ。
超怪力!?
木村政彦といえば怪力エピソードはまさに圧巻の一言。
体つきを見ても分かる通りまさに鬼でしょう。
体つきを見ても分かる通りまさに鬼でしょう。
上記の画像を見てもお分かりだろう。その強さは本物である。
また、画像のように鍛え上げられた肉体はなにか漫画(グラップラー刃牙など)に出てくるような気がするほど恐ろしい。
想像してほしい、泥棒に入ってこんな体の男がいたら自首しますよね?
また、画像のように鍛え上げられた肉体はなにか漫画(グラップラー刃牙など)に出てくるような気がするほど恐ろしい。
想像してほしい、泥棒に入ってこんな体の男がいたら自首しますよね?
木村は師の牛島と共に、本格的にウエイトトレーニングを行い抜群の筋量とパワーを誇った。そのトレーニング方法は、単に高重量を扱うだけではなく、例えば100kgのベンチプレスを1時間1セットで何度も繰り返す、仕上げに腕立て伏せを1000回行うなどといった非常に激しいものだった[14]。その鍛え抜いたパワーは、障子の桟の両端を持って潰すことができ、太い鉛の棒を簡単に曲げたという。また、夏の暑い日、師匠の牛島が木村に団扇で扇いでくれと言うと、木村はその場にあった畳を持ち上げ、それを扇のように仰いで牛島を驚かせた。そして両腕を伸ばした状態で肩から手首に掛けて100kgのバーベルを転がすこともできたという。 また、都電に乗った際、悪戯で吊革のプラスチック製の丸い輪を五指で鷲掴みにし、端から順に割っていくことがあった。
もうエピソードの勢いが違う。
練習だって大木を枯らすほどで、もう勘弁してくれって感じです。
練習だって大木を枯らすほどで、もう勘弁してくれって感じです。
その師匠
忘れちゃいけないのがその師匠。
とんでもないエピソード。名前。まぁ全部怖い。
とんでもないエピソード。名前。まぁ全部怖い。
その柔道の荒々しさ、性格の豪放さは語り草で、「鬼の牛島」「不敗の牛島」と謳われ、対戦相手からは「猛虎」と恐れられた。鷲のような眼光鋭い目は、睨まれるだけで射すくめられたという。
朝は60kgあるローラーを牽きながら走り込み、深夜になると裸で大石を抱え上げて筋肉を鍛えた。さらに茶の葉を噛んで自身を奮い立たせ、大木に体当たりを繰り返した。そして仕上げはその大木に帯を縛り付けて背負い投げ千本の打ち込みをした。
試合前夜にはスッポンの血を飲み、当日はマムシの粉を口に含んで試合場に上がる。開始の合図と同時に突進して相手に躍りかかり、徹頭徹尾、攻めて攻めて攻め続ける。この攻撃精神が牛島柔道の信条であり、愛弟子の木村政彦にも受け継がれている。
1934年の皇太子生誕記念天覧試合では試合前から肝吸虫に体を冒され、体重が9kgも減って歩く事すらままならない状態だったが、精神力でカバーするために洞窟に籠もって1カ月間そこで坐禅し、宮本武蔵の『五輪書』を朗唱して試合に備えた。体が動かぬのを精神で補おうという決意であったが、結局牛島は敗れてしまった。この病気さえなければ間違いなく優勝は彼だったとも言われている。
そんな牛島ですが、あまりに天覧試合を意識するあまり、弟子にその夢を託してしまうなんてあたりがちょっと泣けますね。
力道山と
力道山との一戦はあまりに有名で、昭和の巌流島と言われるほどです。
この戦いはあまりに疑惑が多く「なぜ木村政彦は力道山を殺さなかったのか」なんて本も出る始末。
この戦いはあまりに疑惑が多く「なぜ木村政彦は力道山を殺さなかったのか」なんて本も出る始末。
via s.eximg.jp
伝説の惨劇 力道山vs木村政彦 ‐ ニコニコ動画:GINZA
via www.nicovideo.jp
この戦いはブック破りだとか色々後に噂はありますが、真実はいまだ謎。
また、力道山が死亡した際、木村政彦は「力道山は俺が呪い殺した」とまで言っていますから恨みは相当深かったんでしょう。
また、力道山が死亡した際、木村政彦は「力道山は俺が呪い殺した」とまで言っていますから恨みは相当深かったんでしょう。