とにかく明るい丸山桂里奈   数々の栄光と失敗、おもしろエピソード
2023年10月23日 更新

とにかく明るい丸山桂里奈 数々の栄光と失敗、おもしろエピソード

よく「何にも考えてなさそう」「何も悩みがなさそう」「なんでそんなに明るいの?」といわれる丸山桂里奈だが、決してサッカー人生なにもかもがうまくいったわけではなく、どちらかというと苦労人。だけど明るい理由は「いつかきっと笑ってサッカーをする日が来る。その日のために・・・・」という気持ちだった。

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1983年3月26日、丸山桂里奈は、東京都大田区大森北で生まれた。
父、母、兄、桂里奈さんの4人家族。
妻を「ネコ」と呼ぶ父、夫を「ウサギ」と呼ぶ母、丸山桂里奈が2004年アテネオリンピックに出場しているとき、家で
「アレッ、桂里奈いないけどどこいったの?」
という兄に囲まれて育った。
幼少期の丸山桂里奈について、母は
「活発で元気な子」
といい、父は
「元気で明るく、子猫を引き連れて歩くような子供」
といっている。
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丸山桂里奈が小学1年生のとき、日本女子サッカー界に大きな変化が起こった。
それまで真剣勝負の場は、年1度の全日本女子選手権(現:皇后杯)だけだったが、

読売サッカークラブ・ベレーザ(東京)、
清水フットボールクラブ(静岡)
田崎真珠神戸フットボールクラブ・レディース(兵庫)
日産FCレディース(東京)
新光精工FCクレール(東京)、
プリマハム・FC・くノ一(三重)

という1都3県6チームが参加する「日本女子サッカーリーグ(現:なでしこリーグ」が誕生。
選手はプロではなくアマチュアだったが、サッカー女子の大きなモチベーションとなった。
開幕戦は、全日本選手権2連覇中のベレーザ vs 日本代表選手に加えて台湾代表の周台英を擁する清水。
このときはベレーザが2対0で勝利したが、翌1990年1月にシーズンが終わったとき、優勝し初代女王に輝いたのは清水だった。
3ヵ月後には第2回日本女子サッカーリーグが開幕し、1年後にはベレーザが初優勝。
16ゴールを挙げて得点女王&MNPを獲得したキャプテンの野田朱美、高倉麻子、手塚貴子、本田美登里、松永知子という日本代表選手を並べる布陣で、14勝1分無敗という圧倒的な強さだった。
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このとき丸山桂里奈は小学校2年生。
元々仲良しだった大島君にクラスに転校してきた福田君が加わって、毎日、3人で遊んだ。
陸上クラブに所属し、短距離でも長距離でも1番をとり、4年生になると400mを走り始め、区大会で優勝して国立競技場でも走った。
「興味があることはトコトン集中して頑張るけど興味がなくなるとどうでもよくなるタイプ」
という丸山桂里奈は、剣道、テニス、水泳、バスケットボール、バレーボールとスポーツは何でも
「かじった」
が、母親に勧められて始めたピアノだけはまったく合わず、レッスンにいったフリをしてサボった。
すぐにバレて怒られたが、
「やりたくないことはやりたくない」
とハッキリいい、それ以降は強制されなくなった
母親は、バレリーナにしたかったが、あまりの活発さにあきらめた。

Jリーグ30周年記念スペシャルムービー

同時期、

鹿島アントラーズ
ジェフユナイテッド千葉
浦和レッズ
東京ヴェルディ
横浜マリノス
横浜フリューゲルス
清水エスパルス
名古屋グランパス
ガンバ大阪
サンフレッチェ広島

という10クラブによって日本初のプロサッカーリーグ、「Jリーグ」がスタート。
開幕戦は、東京ヴェルディ vs 横浜マリノスで、国立競技場は6万人近い観衆で埋め尽くされ、翌日も4試合が行われ、鹿島のジーコがハットトリックを達成。
ラモス・ルイ、三浦知良、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内選手に加え、ジーコ(鹿島)、リトバルスキー(市原)、カレカ(柏)、ディアス(横浜M)などワールドクラスの選手も参戦したJリーグに日本中が熱狂。
サッカーへの関心が爆発的に高まり、空前絶後のサッカーブーム、Jリーグブームが起こり、この年の新語・流行語大賞の年間大賞は「Jリーグ」、新語部門金賞は「サポーター」
スポーツをみるだけでなくチームを支える人を指す「サポーター」は、それまで日本に存在していなかった新しいスポーツの楽しみ方だった。
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5年生の終わり、福田君と大島君が大田区立入新井第一小学校サッカークラブに入団すると、丸山桂里奈も一緒にいたい一心で入った。
今でもサッカーを始めたきっかけを聞かれると
「好きな男の子と一緒にいたかったから」
と答える丸山桂里奈だが、それとは別にサッカーが大好きになった。
「技術を習得して自分ができなかったことができるようになっていったら楽しくなって、気づいたらサッカーが好きになっていました」
ポジションは最初からフォワード。
ゴールを決めるのが楽しいのはもちろん、プレー中にみんなが1つになれること、同じことを目指して頑張れること、選手や指導者だけでなく応援している人たちも一緒に喜びを分かち合えるところが大好きだった。
「これは私の持論なんですけど、ボールって丸いじゃないですか。
私、丸いものが好きで、集まっている人はみんな良い人なんだと思うんですよね」
家の近所の路地裏で暗くなるまで壁に向かってボールを蹴り、学校もボールをリュックに入れ、スパイクを履いて登校し、授業中も
「サッカーしたいな。
早く放課後にならないかな」
とサッカーのことばかり考えていた。
学校でサッカーをやっている女子は自分だけだったが、男子に混ざって試合で活躍し、ドンドン自信をつけていった。
体格や体力の差でひっくり返されることもあったが、
「それ自体、悔しくて、ますます練習にのめり込みました」

Pierre Littbarski .. dribbling compilation

Jリーグでは、ジェフユナイテッド市原のドイツ出身のドリブラー、ピエール・リトバルスキーが大好きだった。
「今思うとなんでそんなに好きだったか謎」
というが、とにかくリトバルスキーに夢中。
知名度ではジーコが優っていたが、ワールドカップの実績ではリトバルスキーの方が上。
(リトバルスキーは、ドイツ代表として、ワールドカップ決勝の舞台を3度踏み、1度優勝を経験。
ジーコも、ブラジル代表として3度ワールドカップに出ているが、決勝に進んだことは1度もなかった)
最も特徴的だったのは、170cmに満たない体でのドリブル突破。
ボールをガニ股にスッポリと収めて、足に吸いつくようなドリブルで相手を抜き去る姿は
「オクトパスドリブル」
と呼ばれた。
「カッコイイ」
「リトバルスキーみたいになりたい」
と思う丸山桂里奈は、自然と歩き方もガニ股に。
結果、真っ直ぐだった脚は、母親に
「お願いだから素足でスカートはかないで」
といわれるほどO脚になった。
「サッカーって脚を使う競技なので、すごく細かい技術が必要ですし、ちゃんと練習しないとうまくなりません。
それを積み重ねてきたからこそ、これは絶対に誰にも負けないって自信があったんです」
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リトバルスキーのプレーをビデオで繰り返しみて、雑誌についていたポスターを部屋に貼り、グッズや文房具も集めた。
中でも1番お気に入りは、リトバルスキーが表紙になったノート。
勉強に使うのはもったいないので
「「サッカーのことを書くノートにしよう」
と思いついた。
これが「サッカーノート」の始まりだった。
その日の体調、練習メニュー、練習でうまくいったこと、うまくいかなかったこと・・・・、サッカーに関することなら何を書いてもOK。
フォーメーションの絵を描いたり
「やる」
「勝つ」
「絶対に」
「一丸となって」
「・・・・のために」
など自分の気持ちを盛り上げたり、自分に対する誓いのような言葉も書いた。
すごく細かく書くときもあれば、超アバウトに書いたり、しばらく書かなくなったり、そんなことを繰り返しながら、サッカーノートは何冊にもなっていった。
「長く書き続けたサッカーノートは、私にとって貴重な資料になっています。
例えば練習していると、昨日までできていたプレーが突然うまくできなくなってしまうことがあります。
そんなとき昔のノートを振り返ってみると、できていた頃の体調や練習メニューがわかって、あのときはこんな練習していたんだとか、毎日続けていた腹筋をやめたから調子が落ちたのかななどと比較して考えることができます。
体調や練習内容だけでなく、そのときの気持ちまで思い出してヒントになることもあります。
サッカーノートは、私を迷いから救ってくれるバイブルです」
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5年生の終りからサッカーを始めた丸山桂里奈は、小学校卒業が近づくと
「この先どうしようかな」
と悩んだ。
50m走、6秒3の丸山桂里奈は、ある中学校から陸上で推薦がきていたが、サッカーの方が好きだった。
「人間ってごはんを食べるじゃないですか。
それと同じですよ」
というくらい、サッカーは生活の一部と化していたが、女子サッカー部がある中学校など聞いたことがないので
「サッカーやめなくちゃいけないのかな」
と思っていた。
そんなある日、
「これ、受けてみたら?」
といってチームメイトのお父さんが新聞の切り抜きを持ってきてくれた。
切り抜きに書かれてあったのは、超名門女子サッカーチーム「ベレーザ」の下部組織「メニーナ」の入団テスト開催のお知らせで、丸山桂里奈は、すぐに
「受けてみよう」
と思った。
テスト会場に着くとたくさん中学生、高校生が集まっていて、
「サッカーやってる女の子って、こんなにいるんだ」
と驚いた。
テストは、監督やコーチが見守る中、50m走、リフティング、ドリブル、パス、シュート、ゲームなどを行った。
「足がものすごく速い子や守備が抜群にうまい子、明らかに自分よりうまいと思う子もたくさんいて、私と同じように地元で男ばかりの中でプレーしてきた、サッカーが大好きな子たちだと思いました」
サッカーを始めて1年の丸山桂里奈は、他のサッカー少女と一緒にテストを受けて、200人中10人の合格者の1人となった。
大好きな男の子2人を追いかけてサッカーを始め、
「大島君のことがちょっと好きになっていました」
という丸山桂里奈だが、大島君は違う中学生に行き、福田君は、同じ大田区立大森第二中学校に入ったがラグビーを始めた。
そして自分は、サッカー漬けとなった。

OH OH OH ~We are the Winners~ (with L・リーガーズ)

メニーナは、ベレーザのジュニアチームで、ベレーザがポルトガル語で「美人」という意味なのに対し、メニーナは「少女」
出来上がった選手を集めるのではなく才気ある中学生、高校生を鍛えようというベレーザの育成システムでもあった。
両チームは同じ時間、同じ場所で練習し、クラブハウスのロッカールームも同じだった。
ベレーザが第2~5回まで4連覇した後、日本女子サッカーリーグは「L・リーグ」に改称。
公式イメージソング「OH OH OH We are the Winners」を発表し、メインボーカルは酒井法子、そしてリーグの10クラブから1選手ずつがバックコーラスを行った。
各クラブもイメージソングを製作し、日興證券は早見優、新光FCクレールはマルシア、そしてベレーザは和田アキ子だった。
メニーナの練習は、週6回。
週末はベレーザの試合があり、その翌日が休みとなるので、月曜日だけが休み。
丸山桂里奈は、学校があるため、丸一日休める日はなかった。
練習場所は、川崎市のよみうりランドの中にある専用グラウンド。
選手は基本的に社会人なので、学校の部活動より遅めの18時30分に練習が始まり、21時30分に終了。
丸山桂里奈は、電車、バスを乗り継いで1時間半かかるので、毎日、中学校の授業が終わると
「乗り遅れると間に合わない!」
とダッシュで駅へ。
18時20分に練習場に着いて21時までミッチリ練習。
練習後、片づけと着替えを済ませて帰路につくのは22時。
コンビニで買ったおにぎりやカップラーメンを電車の中で食べて、走行する振動に揺られながら、ボーっと景色を眺めるのが、心安らぐ大好きな時間。
駅に着くといつも母親か父親が自転車で迎えにきてくれていて
「いいことも、何かイヤなことがあったときも、とにかく自分からなんでも話しました」
帰宅は24時を過ぎることもあったが、
「話を聞いてもらえたという満足感もあってスッキリし、家に着く頃にもうは元気になっていました」
そして布団に倒れ込んだ。
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よみうりランドでは男子チームであるヴェルディも練習していて、練習をまじかでみることができ、丸山桂里奈は、
「すごい人がいっぱいいる」
と感動。
ベレーザでは、野田朱美や大竹奈美などに圧倒されたが、中でも4歳上、東京都立南野高校に通う澤穂希は特別な存在だった。
澤穂希は丸山桂里奈と同じく中1でメニーナに入ったが、1ヵ月でベレーザに昇格。
さらに数ヵ月後、日本女子サッカーリーグにデビューし、3戦目で初ゴールを含む2得点。
中3の冬、日本代表デビュー戦で、いきなり4得点。
まさに天才であり、丸山桂里奈は、メニーナに入る前から
「澤さんのすごさは日本中誰もが知っていますが、私たちサッカー選手にとっては澤さんは神様みたいな存在でした」
と思っていたが、実際に会ってみると
「澤さんは地蔵だと思っていて、地蔵様くらい温厚なんです。
神様、仏様ってありますけど、私は地蔵様が1番上にいるんです。
その位置にいるのは澤さんしかいないんです
と崇めていた。
丸山桂里奈がメニーナに入った直後、第2回FIFA女子ワールドカップがあり、前回大会が無得点予選敗退の日本代表は

ドイツ戦 0対1
ブラジル戦 2対1
スウェーデン戦 0対2

とブラジルに勝って、グループリーグ3位で決勝トーナメント進出。
決勝トーナメント初戦で、アメリカに0対4で負けたものの、オリンピック出場権をGET。
ベレーザの先輩で日本代表キャプテンの野田朱美 は、ブラジル戦で2ゴールを挙げ、澤穂希は、体力差のある外国人に果敢にアタックして脚を負傷し病院送りとなった。
ワールドカップが終わった後、Lリーグは8~12月という超短期間で開催し、プリマハム・FC・くノ一が優勝し、ベレーザは4位だった。
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