中原 ひとみ(なかはら ひとみ)
中原 ひとみ(なかはら ひとみ)
中原 ひとみ(なかはら ひとみ、1936年7月22日 ‐ )は、日本の女優。本名:土家 里子。愛称はバンビ。東京都台東区出身。アズユー所属。夫は俳優の江原真二郎。長男は土家歩、長女は土家里織。
共立女子高等学校中退。東映ニューフェイス第1期生として、東映へ入社。同期には山本麟一・高田敏江・南原宏治らがいる。1954年、映画『魚河岸の石松 女海賊と戦う』でデビュー。
代表作の映画『純愛物語 (Geschichte einer wahren Liebe )』では原爆の後遺症で短い生涯を閉じるヒロインを演じ、1957年のキネマ旬報ベストテン第2位に入った。1958年6月25日、世界三大映画祭の一つ第8回ベルリン国際映画祭に出席のためドイツのベルリンへ出発。6月27日、映画祭開幕。最終日の7月8日、出演作で出品作の『純愛物語』が銀熊賞 (監督賞)を受賞。審査委員会の長編劇映画部門の委員長はフランク・キャプラだった。その後、フランス・イタリア・スイスを経由して、7月21日、約1ヶ月ぶりに日本に帰ってきた。当時はまだ海外渡航自由化の前で、この映画祭出席は受賞と共に貴重なヨーロッパ訪問となった。日本出発時の写真が現存する。
1960年代初めまで、東映現代劇の看板女優として数々の映画に主演。時代劇にも出演している。1960年、江原真二郎と結婚。1963年以降は、活躍の場をテレビドラマに移した。1979年頃からは再び映画に出演し、演劇にも活動の場を広げている。家族4人で出演したライオン歯磨(ホワイト&ホワイトライオン)のCMは、10年以上にわたって制作された。夫の江原とはおしどり夫婦として紹介されてきた。
趣味はガーデニング・麻雀・書道。
共立女子高等学校中退。東映ニューフェイス第1期生として、東映へ入社。同期には山本麟一・高田敏江・南原宏治らがいる。1954年、映画『魚河岸の石松 女海賊と戦う』でデビュー。
代表作の映画『純愛物語 (Geschichte einer wahren Liebe )』では原爆の後遺症で短い生涯を閉じるヒロインを演じ、1957年のキネマ旬報ベストテン第2位に入った。1958年6月25日、世界三大映画祭の一つ第8回ベルリン国際映画祭に出席のためドイツのベルリンへ出発。6月27日、映画祭開幕。最終日の7月8日、出演作で出品作の『純愛物語』が銀熊賞 (監督賞)を受賞。審査委員会の長編劇映画部門の委員長はフランク・キャプラだった。その後、フランス・イタリア・スイスを経由して、7月21日、約1ヶ月ぶりに日本に帰ってきた。当時はまだ海外渡航自由化の前で、この映画祭出席は受賞と共に貴重なヨーロッパ訪問となった。日本出発時の写真が現存する。
1960年代初めまで、東映現代劇の看板女優として数々の映画に主演。時代劇にも出演している。1960年、江原真二郎と結婚。1963年以降は、活躍の場をテレビドラマに移した。1979年頃からは再び映画に出演し、演劇にも活動の場を広げている。家族4人で出演したライオン歯磨(ホワイト&ホワイトライオン)のCMは、10年以上にわたって制作された。夫の江原とはおしどり夫婦として紹介されてきた。
趣味はガーデニング・麻雀・書道。
1937年誕生
野添 ひとみ(のぞえ ひとみ) 松竹・大映の女優
野添 ひとみ(のぞえ ひとみ)
野添 ひとみ(のぞえ ひとみ、本名:川口 元 かわぐち もと、1937年2月11日 - 1995年5月4日)は、女優。夫は俳優の川口浩。実姉で双子の野添和子はひとみの付き人を長く務めた後、大映テレビでプロデューサーになった。
松竹歌劇団(SKD)の新人募集に超難関を潜り抜け合格、中学校卒業と同時に養成所である松竹音楽舞踊学校に入ると早速声がかかり、1952年に松竹映画『うず潮』で佐田啓二の相手役として銀幕デビューした。その後は幾つかの松竹作品に出演したが、1957年に交際中の川口浩が大映重役である父親の川口松太郎に頼み込み、大映へ移籍した。
1959年4月26日、カンヌ国際映画祭に出席のためフランスへ出発。同5月22日、日本へ帰国した。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なフランス訪問となった。
1960年、大映で共演の多かった川口浩と結婚した。2人の娘をもうけたが、1983年2月には次女を17歳の若さで失い、1987年11月には夫・浩に癌で先立たれるという不幸に見舞われる。その後は甲状腺癌にかかり、1995年5月4日、夫と同じく東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年58。
(出典:Wikipedia)
松竹歌劇団(SKD)の新人募集に超難関を潜り抜け合格、中学校卒業と同時に養成所である松竹音楽舞踊学校に入ると早速声がかかり、1952年に松竹映画『うず潮』で佐田啓二の相手役として銀幕デビューした。その後は幾つかの松竹作品に出演したが、1957年に交際中の川口浩が大映重役である父親の川口松太郎に頼み込み、大映へ移籍した。
1959年4月26日、カンヌ国際映画祭に出席のためフランスへ出発。同5月22日、日本へ帰国した。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なフランス訪問となった。
1960年、大映で共演の多かった川口浩と結婚した。2人の娘をもうけたが、1983年2月には次女を17歳の若さで失い、1987年11月には夫・浩に癌で先立たれるという不幸に見舞われる。その後は甲状腺癌にかかり、1995年5月4日、夫と同じく東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年58。
(出典:Wikipedia)
桜町 弘子(さくらまち ひろこ) 東映三人娘のお姫様女優
桜町 弘子(さくらまち ひろこ)
桜町 弘子(さくらまち ひろこ、1937年6月16日 - )は、日本の女優。本名は臼井 真琴。静岡県出身。静岡県立下田南高等学校卒業。
1956年に東映ニューフェイスの第3期生となる。同期には里見浩太朗・大川恵子・大村文武らがいた。1957年、大友柳太朗・美空ひばり・大川橋蔵主演『大江戸喧嘩纏』に、松原 千浪の名で映画デビュー。
同年の『ふたり大名』から桜町 弘子に改名、以後丘さとみ・大川恵子らと東映三人娘として活躍。時代劇を中心に任侠映画・現代劇にも出演した。
(出典:Wikipedia)
1956年に東映ニューフェイスの第3期生となる。同期には里見浩太朗・大川恵子・大村文武らがいた。1957年、大友柳太朗・美空ひばり・大川橋蔵主演『大江戸喧嘩纏』に、松原 千浪の名で映画デビュー。
同年の『ふたり大名』から桜町 弘子に改名、以後丘さとみ・大川恵子らと東映三人娘として活躍。時代劇を中心に任侠映画・現代劇にも出演した。
(出典:Wikipedia)
水野 久美(みずの くみ) 東宝特撮界の大スター
水野 久美(みずの くみ)
水野 久美(みずの くみ、1937年1月1日 - )は、日本の女優。本名は五十嵐 麻耶。
1958年、東宝に入社。1959年、劇団俳優座養成所を第8期生として卒業。
まだ、海外渡航自由化の前だった1960年、同7月27日から8月2日まで開催されたカラカス東宝映画祭のため、南米のベネズエラを訪れている。続いて、アメリカ・ロサンゼルスで同8月5日に開館した東宝ラブレア劇場の開館式にも出席した。
(出典:Wikipedia)
1958年、東宝に入社。1959年、劇団俳優座養成所を第8期生として卒業。
まだ、海外渡航自由化の前だった1960年、同7月27日から8月2日まで開催されたカラカス東宝映画祭のため、南米のベネズエラを訪れている。続いて、アメリカ・ロサンゼルスで同8月5日に開館した東宝ラブレア劇場の開館式にも出席した。
(出典:Wikipedia)
東宝特撮女優コレクション4 水野 久美(みずの くみ)&高橋 紀子(たかはし のりこ)「マタンゴ」「怪獣大戦争(1965年、東宝)」他 | Middle Edge(ミドルエッジ)
東宝特撮映画界のスーパースターの水野久美さんと高橋紀子さんが出演した特撮映画の作品紹介と出演カットのまとめです。妖星ゴラス・フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ他10作品。
水野 久美さんは東宝特撮映画界のスーパースター
1963年、東宝を退社してフリーとなる。以降、映画を始め、テレビドラマ、舞台など多数に出演。その妖艶な美貌から和製フランソワーズ・アルヌールと呼ばれていたこともある。
1960年代は、特に妖艶なヴァンプ役として東宝特撮映画(怪獣映画、怪奇映画)に多く出演、熱烈なファンは現在も多く、近年も海外からファンレターが送られてくるという。1998年には『怪獣大戦争』で演じた「X星人」のフィギュアが発売されている。『徹子の部屋』出演時にこのことに触れ、「私、昔火星人演ったことあるんです」などとコメントしていた。
(出典:Wikipedia)
1963年、東宝を退社してフリーとなる。以降、映画を始め、テレビドラマ、舞台など多数に出演。その妖艶な美貌から和製フランソワーズ・アルヌールと呼ばれていたこともある。
1960年代は、特に妖艶なヴァンプ役として東宝特撮映画(怪獣映画、怪奇映画)に多く出演、熱烈なファンは現在も多く、近年も海外からファンレターが送られてくるという。1998年には『怪獣大戦争』で演じた「X星人」のフィギュアが発売されている。『徹子の部屋』出演時にこのことに触れ、「私、昔火星人演ったことあるんです」などとコメントしていた。
(出典:Wikipedia)
1939年誕生
佐久間良子(さくまよしこ) 東映の看板女優
佐久間 良子(さくま よしこ)
佐久間 良子(さくま よしこ、1939年2月24日 - )は、日本の女優。東京都練馬区出身。身長158cm。1957年に東映ニューフェイス第4期で水着審査を拒否したが補欠合格し、東映へ入社。同期には水木襄・室田日出男・曽根晴美・花園ひろみ・山口洋子・山城新伍らがいる。俳優座養成所で半年間、研修を受け、この間に東映動画『白蛇伝』のモデルとして初めてカメラの前に立つ。1958年、映画『美しき姉妹の物語・悶える早春』の端役で映画デビュー。続く『台風息子』2部作で江原真二郎の相手役に抜擢され売り出す。以降、早くから東京撮影所期待のホープ女優として、デビュー2年目にして、雑誌『平凡』人気投票の女優10位に入る。1960年以降は、今井正監督『白い崖』、家城巳代治監督『秘密』、自ら映画化を希望した村山新治監督『故郷は緑なりき』と着実な歩みをみせ、東映の看板女優として活躍。1967年頃からテレビドラマと舞台に活躍の場を移し、テレビでは『徳川の夫人たち』『皇女和の宮』、初舞台の1969年の『春の雪』は好評のため4ヵ月のロングランとなり、以後、日本を代表する女優として揺るぎない地位を確立した。テレビドラマでは特にNHK大河ドラマ史上、数少ない女性主役を務めた『おんな太閤記』のねね役が知られている。
(出典:Wikipedia)
(出典:Wikipedia)
若林映子(わかばやしあきこ) 東宝の大スター 日本人初ボンドガ-ル
若林映子(わかばやしあきこ)
若林 映子(わかばやし あきこ、1939年12月13日 - )は、日本の女優。東宝映画を中心に活躍した。名前の映子は本名で、夕映えの増す頃に生まれたのにちなんで名づけられた。身長163cm。
アジアンビューティー中のアジアンビューティーの若林映子さん
エキゾチックな容姿、まさにアジアンビューティー中のアジアンビューティー、日本国内よりも海外の方で人気を得て、1959年の、ロモロ・マルチェリーニ監督のイタリア映画『レ・オリエンターリ』を皮切りに、1961年にはマルチェリーニ監督の推薦で日伊合作映画『アキコ』に題名と同じアキコ役で出演。同年、西ドイツ映画『遙かなる熱風』で日中混血のダンサー役を演じる。その後は、東宝でアクション、サラリーマン物、特撮映画と幅広いジャンルで活躍。『三大怪獣 地球最大の決戦』は名画『ローマの休日』の要素を組み込んだ異色怪獣映画だが、欧州のサルノ王女役(中盤は一転して金星人に憑依された女浮浪者・予言者)を極めて艶やかに演じた。
(出典:Wikipedia)
アジアンビューティー中のアジアンビューティーの若林映子さん
エキゾチックな容姿、まさにアジアンビューティー中のアジアンビューティー、日本国内よりも海外の方で人気を得て、1959年の、ロモロ・マルチェリーニ監督のイタリア映画『レ・オリエンターリ』を皮切りに、1961年にはマルチェリーニ監督の推薦で日伊合作映画『アキコ』に題名と同じアキコ役で出演。同年、西ドイツ映画『遙かなる熱風』で日中混血のダンサー役を演じる。その後は、東宝でアクション、サラリーマン物、特撮映画と幅広いジャンルで活躍。『三大怪獣 地球最大の決戦』は名画『ローマの休日』の要素を組み込んだ異色怪獣映画だが、欧州のサルノ王女役(中盤は一転して金星人に憑依された女浮浪者・予言者)を極めて艶やかに演じた。
(出典:Wikipedia)
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1957年、「朝の口笛」でデビュー。「透明人間と蝿男」に主演。 1959年、島耕二監督の「細雪」の四女役を演じスターの仲間入り。以後、京マチ子、山本富士子、若尾文子の三大女優に次ぐスター女優として売り出され活躍。
1963年7月、人気のピークで引退。撮影所長の永田秀雅によると、当時のカラー撮影は顔のクローズアップを撮る時に600から800ワットの照明を当てる必要があり、この種の撮影が続いた後、目の縁に異常を来し医務室でもこのままでは失明すると判定され、引退となってしまったとのこと。
1964年、結婚。
(出典:Wikipedia)