『オペラ座の怪人』の成功で一躍スターに
サラ・ブライトマンは、イギリスを代表するソプラノ歌手。今やワールドワイドに活躍する彼女ですが、どのようにして国際的名声を手に入れたのでしょうか?そのルーツを辿っていきましょう。
サラは幼少期からバレエを習い、学校ではジャズと演技を学ぶなど、早くからエンターティナーとしての素養を身に付けていきます。13歳にはミュージカルの初舞台を踏み、16歳の時にはダンスグループに所属。
1981年、21歳でミュージカル『キャッツ』に出演し、ミュージカル女優としての評価を高めると、1986年には『オペラ座の怪人』のヒロイン・クリスティーヌ役に抜擢。ここでの名演が転機となり、瞬く間にその名を世界へ轟かせることになるのです。
サラは幼少期からバレエを習い、学校ではジャズと演技を学ぶなど、早くからエンターティナーとしての素養を身に付けていきます。13歳にはミュージカルの初舞台を踏み、16歳の時にはダンスグループに所属。
1981年、21歳でミュージカル『キャッツ』に出演し、ミュージカル女優としての評価を高めると、1986年には『オペラ座の怪人』のヒロイン・クリスティーヌ役に抜擢。ここでの名演が転機となり、瞬く間にその名を世界へ轟かせることになるのです。
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結婚が成功への転機となる
この成功の裏には、夫アンドルー・ロイド・ウェバーの存在があります。
作曲家であるウェバーのミュージカルに度々出演していたサラは、1984年に彼と結婚(当時24歳)。
その後、『オペラ座の怪人』で音楽を担当したウェバーは、ブロードウェイでの上演に際し、周囲の反発を押し切ってサラをヒロインに抜擢します。
身内贔屓とも捉えられるこの采配は功を奏し、結果として、「彼女のために作られた」といわれるクリスティーヌ役により、サラは世界に名を知らしめるに至ったのです。
作曲家であるウェバーのミュージカルに度々出演していたサラは、1984年に彼と結婚(当時24歳)。
その後、『オペラ座の怪人』で音楽を担当したウェバーは、ブロードウェイでの上演に際し、周囲の反発を押し切ってサラをヒロインに抜擢します。
身内贔屓とも捉えられるこの采配は功を奏し、結果として、「彼女のために作られた」といわれるクリスティーヌ役により、サラは世界に名を知らしめるに至ったのです。
サラがクリスティーヌ役を務めた『オペラ座の怪人』は、1986年のロンドン公演、1988年のニューヨーク・ブロードウェイ公演と続きます。日本でも、1988年に劇団四季での上演がスタート。一躍、人気を博します。
『NHK紅白歌合戦』や『バルセロナ五輪』にも登場
なお、日本において、一部ミュージカルファンの間では知られていたサラの名が、お茶の間にまで浸透したのは、1991年の『NHK紅白歌合戦』出演がきっかけでした。
ここで彼女は、『オペラ座の怪人』の劇中歌『ミュージック・オブ・ザ・ナイト』を披露。演歌・歌謡曲・ポップスに彩られた予定調和な大晦日の夜に響き渡る、本場ブロードウェイ仕込みのド迫力な歌唱…。対戦相手となった白組の少年隊は、きっと、立つ瀬がなかったに違いありません。
ここで彼女は、『オペラ座の怪人』の劇中歌『ミュージック・オブ・ザ・ナイト』を披露。演歌・歌謡曲・ポップスに彩られた予定調和な大晦日の夜に響き渡る、本場ブロードウェイ仕込みのド迫力な歌唱…。対戦相手となった白組の少年隊は、きっと、立つ瀬がなかったに違いありません。
『1991年 NHK紅白歌合戦』出場時のサラ・ブライトマン(1991年)
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翌年1992年には、バルセロナオリンピックの開会式にも登場。式典の音楽監督も務めた、“世界三大テノール”ホセ・カレーラスと共にオリンピックテーマ曲を歌い上げ、万雷の喝采を浴びます。
1992年バルセロナ五輪の公式テーマソング『アミーゴス・パラ・シエンプレ』
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サッカー日本代表戦でよく聞くあの歌も、サラの楽曲!
その後、音楽グループ『エニグマ』メンバー、フランク・ピーターソンをプロデューサーに迎え、名盤として名高いアルバムを次々とリリースしたサラ。
中でも有名なのは、1995年に発表されたアルバム『Fly』の収録曲『クエスチョン・オブ・オナー』。この曲は、同年にドイツで行われたIBF世界ライトヘビー級タイトルマッチ「ヘンリー・マスケ対グラシアノ・ロッシジャーニ戦」のオフィシャルソングとなり、試合前にはサラ本人が歌唱しています。
高揚感溢れる同曲は、スポーツのアンセムにうってつけであり、日本においては、テレ朝のサッカー日本代表戦におけるテーマソングとしてもお馴染みです。
中でも有名なのは、1995年に発表されたアルバム『Fly』の収録曲『クエスチョン・オブ・オナー』。この曲は、同年にドイツで行われたIBF世界ライトヘビー級タイトルマッチ「ヘンリー・マスケ対グラシアノ・ロッシジャーニ戦」のオフィシャルソングとなり、試合前にはサラ本人が歌唱しています。
高揚感溢れる同曲は、スポーツのアンセムにうってつけであり、日本においては、テレ朝のサッカー日本代表戦におけるテーマソングとしてもお馴染みです。
クエスチョン・オブ・オナー(1995年)
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ちなみにこの曲は、イタリアのオペラ作曲家アルフレード・カタラーニ(1854-1893)のオペラ『ラ・ワリー』内のアリアがモチーフ。後に記す音楽ジャンル「クラシカル・クロスオーバー」の先駆けともいえる楽曲となっています。
名作『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』の誕生
今では、サラ・ブライトマンの代名詞的楽曲として知られる『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』。もともとはこの曲、『君と共に旅立とう』というタイトルで、イタリア人歌手アンドレア・ボッチェリが一人で歌っていました。
ボッチェリの歌唱にいたく感動したサラは、彼へ「デュエットで歌わないか?」と提案。ボッチェリサイドもこれを快諾し、かくして、歌詞の一部をイタリア語から英語に書き直し、題名も『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』と改称して、リリースされるに至ります。結果として、同曲はヨーロッパ全土で大ヒット。全世界で1200万枚以上を売り上げるという、驚異的なセールスを記録しました。
ボッチェリの歌唱にいたく感動したサラは、彼へ「デュエットで歌わないか?」と提案。ボッチェリサイドもこれを快諾し、かくして、歌詞の一部をイタリア語から英語に書き直し、題名も『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』と改称して、リリースされるに至ります。結果として、同曲はヨーロッパ全土で大ヒット。全世界で1200万枚以上を売り上げるという、驚異的なセールスを記録しました。
Sarah Brightman & Andrea Bocelli - Time to Say Goodbye (1997) [720p]
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