セゾングループに関するミドルエッジの記事。
糸井重里「おいしい生活」☆1980年代、西武池袋本店 - Middle Edge(ミドルエッジ)
1980年代はセゾングループ、西武百貨店そして会長の堤清二氏が輝いていた時代です。西武グループの発展のスローガンとも言える、糸井重里氏のキャッチコピー「おいしい生活」をはじめ、1980年代当時の広告を振り返ってみました。
セゾングループとは。
堤康次郎が創業した、現在の西武鉄道が中心の「西武企業グループ」を母体とし、康次郎の死後、流通部門を継いだ次男清二が西武流通グループとして自立。のち西武セゾングループと改称、多角化はさらに進み「西武」を外してセゾングループと名乗ることで独立色を鮮明にした。
1980年代までの急激な拡大成長の一方、1990年代初頭には平成不況を受け早くもリストラに着手したことで、加盟社数は非常に流動的だが、最盛期の時点で12基幹グループ・約100社を数えた。
歴史順に、西武百貨店・西友・朝日工業(西武化学工業)・西洋環境開発(西武都市開発)の4基幹グループを母体とし、「生活総合産業」宣言によりクレディセゾン(西武クレジット)・西洋フードシステムズ(レストラン西武・吉野家D&C・ダンキンドーナツ等)・朝日航洋・セゾン生命保険(西武オールステート生命保険)を新たな基幹企業に選定。さらにバブル景気を迎えインターコンチネンタルホテル・大沢商会、ようやく利益貢献に回ったパルコ、コンビニ時代を反映するファミリーマートが加えられ12グループ体制。1990年に西武ピサ、ウェイヴ、リボーンスポーツシステムズ、西武百貨店文化レジャー事業部の3社1事業部が合併して誕生したピサを加えて最盛期13グループ体制とすることもある。
また上述に収まらない個別事業の管掌及びグループ間の調整を図り、横断的な問題への対処、研究を目的に1987年10月セゾンコーポレーションが設立された。
「西武」と「セゾン」って、どう違うんだ?。
※ 以下の文章は、Wikipediaを参照させていただきました。
西武グループを創業したのは、「堤 康次郎」という人です。滋賀県出身。
第44代衆議院議長を務めた、政治家でもありました。
康次郎がこの世を去った後、子の「堤 義明」は、異母兄「堤 清二」と決別し、義明が西武鉄道の本業を継ぎ、清二には本業ではない流通部門を渡します。
西武グループを創業したのは、「堤 康次郎」という人です。滋賀県出身。
第44代衆議院議長を務めた、政治家でもありました。
康次郎がこの世を去った後、子の「堤 義明」は、異母兄「堤 清二」と決別し、義明が西武鉄道の本業を継ぎ、清二には本業ではない流通部門を渡します。
via ja.wikipedia.org
だから滋賀県に西武グループの「近江鉄道」が走っているんですね。
via ja.wikipedia.org
前面は改造されてますが、ほとんど西武鉄道と同じカラーリングですね。
セゾングループ設立へ。
兄弟の仲違いにより、「鉄道」から別れた西武百貨店を中心に、清二は、1971年「西武流通グループ」を旗揚げします。
その後、「西武セゾングループ」と改称、さらに西武の名前を外し、「セゾングループ」という名称になります。
その後、「西武セゾングループ」と改称、さらに西武の名前を外し、「セゾングループ」という名称になります。
セゾングループに所属していた企業体
セゾングループに所属していた企業体は、そうそうたるメンバーです。
西武百貨店、西友、吉野家、ダンキンドーナツ、そしてパルコ、ファミリーマート。
パルコは渋谷に進出し、もともと渋谷を本拠地にしていた東急グループと、熾烈な競争を行います。
西武百貨店、西友、吉野家、ダンキンドーナツ、そしてパルコ、ファミリーマート。
パルコは渋谷に進出し、もともと渋谷を本拠地にしていた東急グループと、熾烈な競争を行います。
via ja.wikipedia.org
via ja.wikipedia.org
今やいろいろなコンビニチェーンを吸収し、どこが親会社なのかわからなくなってしまったファミマですが、もともとはセゾングループの企業で、西友とともに、主に西武線の各駅に見られたお店でした。
バブルとともに大きくなり、バブル崩壊とともに消滅。
日本はバブル崩壊から1990年代長期平成不況期に入ると、イメージ戦略は必ずしも消費と結びつかなくなり、百貨店離れ・スーパー離れを引き起こした。高級消費財や娯楽への消費は抑制され、脱・流通業として手がけられた不動産・ファイナンスは多額の負債を抱えた。また、イトマン事件を巡り、西武百貨店関西が絵画取引を巡り許永中など闇社会と関わっていたことが報道されるなど企業イメージを失墜させる事件も発生した。
カリスマ的な西武の堤家の存在を暗黙の信用担保とした体質、堤清二のワンマン体制、地方の不採算な店舗など、華やかなブランドイメージの影で覆い隠されてきた問題は、一気に明るみに出た。堤清二が代表から失脚(1991年)して、西武百貨店に復帰した和田繁明は、店員の顧客への対応の悪さなどを、「西武百貨店白書」で赤裸々に記述した。後に和田は、そごうグループの再建にも当たった。
こうして本業が揺らぐ中、不動産開発の西洋環境開発(西武百貨店傘下)とノンバンクの東京シティファイナンス(西友傘下)はともに多額の負債を抱え、1990年代後半のセゾンはリストラを断行した。当初はそれぞれ親会社の西武百貨店・西友でリストラ・資産売却を実施。西友はファミリーマート・良品計画など上場子会社とインターコンチネンタルホテルグループの持株を手放した。しかし、第一勧銀を筆頭とした取引銀行団の意向は強く、それでも残った負債のためにクレディセゾン等他のセゾングループ企業や堤清二個人からも支援を要求したため、各所で資産売却を決行し、最後の懸案だった西洋環境開発の清算をもって、2001年に「セゾングループ」は事実上解散した。