さて事業を売却してやることが休業だけだというのも面白くない。
本田は一念発起して《本田技術研究所》を設立する。
興味深いのは会社の名前。ここで〝研究所〟という名称を使用していることである。
本田にとって本田技研の設立は、様々なことの再開であった。
戦争によって中断した研究の再開。事業の再開。そして人間の再開。
その再開を後押しするかたちで、また、その後の本田の事業を支えるかたちで登場したのが藤沢武夫である。
本田の創業者と言えば本田宗一郎である。
だが本田の柱と言えば本田と藤沢、2人の名前があがりやすいだろう。
彼らについて語るべきことは多いが、挙げているとキリが無い。
彼らを象徴しているであろういくつかの出来事を次項にて紹介しよう。
本田は一念発起して《本田技術研究所》を設立する。
興味深いのは会社の名前。ここで〝研究所〟という名称を使用していることである。
本田にとって本田技研の設立は、様々なことの再開であった。
戦争によって中断した研究の再開。事業の再開。そして人間の再開。
その再開を後押しするかたちで、また、その後の本田の事業を支えるかたちで登場したのが藤沢武夫である。
本田の創業者と言えば本田宗一郎である。
だが本田の柱と言えば本田と藤沢、2人の名前があがりやすいだろう。
彼らについて語るべきことは多いが、挙げているとキリが無い。
彼らを象徴しているであろういくつかの出来事を次項にて紹介しよう。
本田と藤沢
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本田が静岡県の生まれなのは前述したが、藤沢は東京都の生まれである。
藤沢は1910年、すなわち明治43年の生まれで、本田の4つ下にあたる。
創設者と参謀にふさわしい年齢差に思えるが、本田は差別をきらう人だったからそのあたりの序列は感じさせなかったかもしれない。
藤沢も鋼材小売店を経て1939年には《日本機工研究所》という〝研究所〟を設立している。
だがこれも戦争に関わる疎開などによって中断。
戦争が事業を中断させたという点についてはふたりは共通しているが、当時、その手の逸話はどこにでもあふれていたのだろう。
ふたりとも、怒るとめっぽうこわかった。
本田は怒ると暴力に走る。工具で殴られたという声もあるし灰皿で殴られたという声もある。
殴るにも色々あるが、あまり褒められたことではないだろう。
しかも、
藤沢は1910年、すなわち明治43年の生まれで、本田の4つ下にあたる。
創設者と参謀にふさわしい年齢差に思えるが、本田は差別をきらう人だったからそのあたりの序列は感じさせなかったかもしれない。
藤沢も鋼材小売店を経て1939年には《日本機工研究所》という〝研究所〟を設立している。
だがこれも戦争に関わる疎開などによって中断。
戦争が事業を中断させたという点についてはふたりは共通しているが、当時、その手の逸話はどこにでもあふれていたのだろう。
ふたりとも、怒るとめっぽうこわかった。
本田は怒ると暴力に走る。工具で殴られたという声もあるし灰皿で殴られたという声もある。
殴るにも色々あるが、あまり褒められたことではないだろう。
しかも、
怒る際、「よくお前が可愛いから怒るというが、俺はお前が本当に憎いから怒ってんだ」と言った。
というおまけがついている。
藤沢も怒るとこわかった。
そもそもが四角い顔に黒縁眼鏡、笑顔は〝豪快〟ときたら〝四角い寺内貫太郎〟がそこにいるようなものだろう。怒ってこわくないわけがない。
しかも文化人である。文化人というのは言葉をたくさん知っていて、役者などもよく見るから迫力のある怒り方というのも自然と学べてしまうのである。
というわけでついたあだ名が《ゴジラ》だった。これは本人の前ではとても言えなかっただろうと思うが現実はどうだったろうか。
そんなふたりだが、破天荒なことはやっても滅茶苦茶な経営をしていたわけではなかった。
危機を奇策でのりきったことはあったが、本来危機というのは凡策では乗り切れないものである。
藤沢も怒るとこわかった。
そもそもが四角い顔に黒縁眼鏡、笑顔は〝豪快〟ときたら〝四角い寺内貫太郎〟がそこにいるようなものだろう。怒ってこわくないわけがない。
しかも文化人である。文化人というのは言葉をたくさん知っていて、役者などもよく見るから迫力のある怒り方というのも自然と学べてしまうのである。
というわけでついたあだ名が《ゴジラ》だった。これは本人の前ではとても言えなかっただろうと思うが現実はどうだったろうか。
そんなふたりだが、破天荒なことはやっても滅茶苦茶な経営をしていたわけではなかった。
危機を奇策でのりきったことはあったが、本来危機というのは凡策では乗り切れないものである。
引退
もうひとつ特筆しておきたいことがある。
このふたりの引き際についてである。
本田が突然社長を引退した理由については、大きく三つの説がある。
ひとつ目は低公害エンジンの開発について。
この時本田は、低公害エンジンを開発すれば会社のために大きな利益をもたらすと社員にもらしたそうである。
すると社員は、低公害エンジンは会社のために開発しているわけではなく、社会のために開発しているのだ、と〝反論〟したらしい。
それを受けて、自分の考え方が会社に寄っていると痛感した本田は、社長を引退することにしたという説。
ふたつ目は水冷エンジンと空冷エンジンの論争について。
当時、若い人々は公害問題に着目していることもあり、水冷エンジンの採用にわいていた。
だが、ここで本田が譲らない。これにはいくつかの理由があったが、もちろん若い人々にも言い分があった。そして対立が起こる。
事の顛末はよくまとめられているので引用させていただこう。
このふたりの引き際についてである。
本田が突然社長を引退した理由については、大きく三つの説がある。
ひとつ目は低公害エンジンの開発について。
この時本田は、低公害エンジンを開発すれば会社のために大きな利益をもたらすと社員にもらしたそうである。
すると社員は、低公害エンジンは会社のために開発しているわけではなく、社会のために開発しているのだ、と〝反論〟したらしい。
それを受けて、自分の考え方が会社に寄っていると痛感した本田は、社長を引退することにしたという説。
ふたつ目は水冷エンジンと空冷エンジンの論争について。
当時、若い人々は公害問題に着目していることもあり、水冷エンジンの採用にわいていた。
だが、ここで本田が譲らない。これにはいくつかの理由があったが、もちろん若い人々にも言い分があった。そして対立が起こる。
事の顛末はよくまとめられているので引用させていただこう。
技術者達は、副社長の藤沢武夫に、あくまで空冷にこだわる宗一郎の説得を依頼、藤沢は電話で宗一郎に「あなたは社長なのか技術者なのか、どちらなんだ?」と問い質した。設立以来、経営を担ってきた他でもない藤沢のこの言葉に宗一郎は折れ、ようやく若手技術者たちの主張を認めた。そして、1300の生産中止と共に1971年(昭和46年)の初代ライフを皮切りに、初代シビック、145と水冷エンジン搭載車が次々にホンダから送り出されるようになり、本田宗一郎が執念を燃やした空冷エンジン乗用車はホンダのラインナップから消滅した。
みっつ目は藤沢武夫が後継者育成を理由に本田に引退を打診したという説である。
もっともこれは先の《藤沢のこの言葉に宗一郎は折れ》の部分のみを抜き出した場合にも成立する話だから、いくつかの逸話が混ざっている可能性がある。
だが、実際にそういった話が藤沢からだされたのならば、本田が受けてもおかしくはないだろうとも思う。
1973年、両者は示し合わせて現役を退く。
本田は取締役最高顧問と研究所長に、藤沢も取締役最高顧問になった。
本田技研工業株式会社創立25周年を前にしたこのふたりの颯爽とした引退は、特に素晴らしかったとされている。
もっともこれは先の《藤沢のこの言葉に宗一郎は折れ》の部分のみを抜き出した場合にも成立する話だから、いくつかの逸話が混ざっている可能性がある。
だが、実際にそういった話が藤沢からだされたのならば、本田が受けてもおかしくはないだろうとも思う。
1973年、両者は示し合わせて現役を退く。
本田は取締役最高顧問と研究所長に、藤沢も取締役最高顧問になった。
本田技研工業株式会社創立25周年を前にしたこのふたりの颯爽とした引退は、特に素晴らしかったとされている。
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