言わずと知れた「寅さん」は昭和の家族映画だった・・・。
昔、家族でよく「寅さん」を観に行った。
映画館への道々、おやじとおふくろが喧嘩していた。
私は妹の手を引いてそのあとをついていく。
でも、「寅さん」を観終わると、
おやじとおふくろは仲直りしていて、
ラーメン屋に連れて行ってくれた。
ファミレスなんて家族では行ったこともない。
外食だって1年に数回しかない。
だから、「寅さん」が家族一番の行事だった。
昭和にはそんな家族が多かったんじゃないかと思う。
「男はつらいよ」を家族みんなで観る。
そう。「寅さん」は昭和を生きた人たちの “家族映画” だったんだ・・・。
映画館への道々、おやじとおふくろが喧嘩していた。
私は妹の手を引いてそのあとをついていく。
でも、「寅さん」を観終わると、
おやじとおふくろは仲直りしていて、
ラーメン屋に連れて行ってくれた。
ファミレスなんて家族では行ったこともない。
外食だって1年に数回しかない。
だから、「寅さん」が家族一番の行事だった。
昭和にはそんな家族が多かったんじゃないかと思う。
「男はつらいよ」を家族みんなで観る。
そう。「寅さん」は昭和を生きた人たちの “家族映画” だったんだ・・・。
via images.ciatr.jp
日本喜劇の最高峰!「男はつらいよ」シリーズ
とにかく笑わせてくれる映画だった。
「男はつらいよ」シリーズは、日本映画界最高の喜劇映画だといえる。
最高の喜劇役者、渥美清の存在は絶大で、山田洋次の演出もまた絶妙だ。
『ザ・エージェント』『バニラスカイ』で知られる映画監督キャメロン・クロウは言う。
「観客を笑いに導くものは、実に繊細で予測不可能で、つかみどころがない」と。
渥美清はその表情一つで笑いを生み出せるまさに喜劇の天才だった。
その予測不可能でつかみどころのない演技に観客は心の底から笑った。
山田洋次の演出は、その喜劇の要素にそこはかとないペーソスを加えた。
そして「男はつらいよ」は極上の人情喜劇に仕上がるのだ。
偉大なるマンネリにはあえて敬意をはらうべきだ。
それが家族を安心させ、明日の生活への元気を与えていたのだから。
「男はつらいよ」シリーズは、日本映画界最高の喜劇映画だといえる。
最高の喜劇役者、渥美清の存在は絶大で、山田洋次の演出もまた絶妙だ。
『ザ・エージェント』『バニラスカイ』で知られる映画監督キャメロン・クロウは言う。
「観客を笑いに導くものは、実に繊細で予測不可能で、つかみどころがない」と。
渥美清はその表情一つで笑いを生み出せるまさに喜劇の天才だった。
その予測不可能でつかみどころのない演技に観客は心の底から笑った。
山田洋次の演出は、その喜劇の要素にそこはかとないペーソスを加えた。
そして「男はつらいよ」は極上の人情喜劇に仕上がるのだ。
偉大なるマンネリにはあえて敬意をはらうべきだ。
それが家族を安心させ、明日の生活への元気を与えていたのだから。
昭和の喜劇王、渥美清と「寅さん」
寅さんはいつも元気だったような気がしていた。でも実はそうではなかった。寅さんこと、渥美清は、晩年病気でほとんど立っていることもままならず、辛い撮影だったらしい。たしかに、最後の48作目の渥美さんは声にハリがなく、ほとんど動かなかった。
しかし、「寅さん」はいつも明るくて元気で面白くて、自由気ままで、ちょっと自分勝手で怒りっぽくて、でも人一倍優しくて、私たちを癒してくれていたように思う。まさに、偉大な昭和の喜劇王だった。
「寅さん」こと渥美清には、1988年(昭和63年)紫綬褒章、死後、国民栄誉賞を贈られている。スポーツ選手が若くして国民栄誉賞を受賞していることを考えると、ちょっと遅すぎるとも思える。まあ、時の政府のご都合主義で出してる感も否めないんで仕方ないけど。それでも、ふし穴だらけだからね、ホント。
気を取り直して、いくつかのエピソードを紹介しよう。
しかし、「寅さん」はいつも明るくて元気で面白くて、自由気ままで、ちょっと自分勝手で怒りっぽくて、でも人一倍優しくて、私たちを癒してくれていたように思う。まさに、偉大な昭和の喜劇王だった。
「寅さん」こと渥美清には、1988年(昭和63年)紫綬褒章、死後、国民栄誉賞を贈られている。スポーツ選手が若くして国民栄誉賞を受賞していることを考えると、ちょっと遅すぎるとも思える。まあ、時の政府のご都合主義で出してる感も否めないんで仕方ないけど。それでも、ふし穴だらけだからね、ホント。
気を取り直して、いくつかのエピソードを紹介しよう。
へえ、「男はつらいよ」ってはじめはテレビだったんだ~
1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言う結末に視聴者からの抗議が殺到した。
1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
1969年フジテレビのドラマ『男はつらいよ』最終話。
うーむ、寅さん、わ、若い!
うーむ、寅さん、わ、若い!
via www.youtube.com
そっかあ、幻の49作目のマドンナは田中裕子さんだったんだ~
体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。
また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。
via www.tora-san.jp
渥美さんの遺言、なんだかグッとくるなあ~
1996年(平成8年)8月4日、午後5時10分、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にてこの世を去る。68歳没。
「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」
という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。
via allabout.co.jp
山田洋次監督の弔辞、泣けるなあ~
5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます。