自民党の様々な要職を歴任した金丸信
1914-1996 昭和後期-平成時代の政治家。
大正3年9月17日生まれ。昭和33年衆議院議員(当選12回,自民党)となる。
第2次田中内閣の建設相をはじめ,国土庁長官,防衛庁長官,党幹事長,副総理,党副総裁などを歴任。
平成2年社会党の田辺誠らと朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問。
4年佐川急便からの5億円の違法献金が発覚し,議員を辞職。
脱税容疑で公判中の平成8年3月28日死去。81歳。
山梨県出身。東京農大卒。
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80年代初頭、中曽根嫌いを公言していた金丸!
ロッキード事件で自民党を離党した田中角栄。しかし、最大派閥の田中派を率いて、実質的な影響力は保持し続けていた。
田中派に支えられた鈴木善幸首相の後継に、田中は中曽根康弘が支持される。
一方、当時の金丸は「中曽根嫌い」を平然と公言していた。
金丸によると三木内閣の国土庁長官時代に八ツ場ダム治水計画を立てた際、幹事長の中曽根が文句をつけたからだという。
田中派に支えられた鈴木善幸首相の後継に、田中は中曽根康弘が支持される。
一方、当時の金丸は「中曽根嫌い」を平然と公言していた。
金丸によると三木内閣の国土庁長官時代に八ツ場ダム治水計画を立てた際、幹事長の中曽根が文句をつけたからだという。
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保利から「冷や飯を食って耐え忍ぶ」という政治信念の薫陶を受けた金丸は、政界風見鶏と呼ばれた中曽根康弘の立ち回りを肯定できず、中曽根が自民党総裁になるまでは日本一の中曽根嫌いを自認していた。
田中が中曽根を総裁に擁立するつもりであることを知った金丸は、「おんぼろ神輿」とまで批判していたが、中曽根内閣では自民党総務会長―幹事長―副総裁と重用された。
鈴木内閣の末期に開かれた中曽根派と田中派の料亭会合の際に、表向きは和解したとされており(内心は中曽根を生涯嫌っていた)、その際に中曽根は「腹も太いし、三木武吉以来の大物だ」と金丸を評している。
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1987年、盟友・竹下登と「経世会」を設立!
1985年2月、自民党を離党しながらも派閥領袖として影響力をもち続ける田中角栄に反旗を翻した竹下登・金丸信らを中心に田中派内に勉強会として創政会(そうせいかい)を結成。1987年7月4日、角栄を追放し事実上派閥を乗っ取る形で経世会(けいせいかい)を結成、会長には竹下が就任した(通称竹下派)。 派閥名は中国の古典にある「経世済民」から取った。
金丸の長男と竹下の長女の結婚、田中の地元新潟県の建設会社福田組会長の娘2人を小沢一郎と竹下の異母弟亘にそれぞれ嫁がせるなど、閨閥を重視していた。
竹下は、中曽根康弘の裁定により自民党総裁と内閣総理大臣に就任、金丸が会長となる。
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竹下がリクルート事件で辞任後も、最大派閥として、人事・資金の両面から自民党を、ひいては日本政界を実質支配し、竹下派(経世会)支配と呼ばれた。
リーダーの鉄の締め付けが残る経世会は「一致結束・箱弁当」と形容された。
高級官僚や米国高官が首相官邸よりもまず先に、竹下派の有力幹部が事務所を構える永田町のTBRビルを訪問していた。その様子は首相の権威の低下と竹下派(経世会)支配の象徴とされた。
元は竹下が会長だったが、留守を預かっていたはずの金丸が竹下退陣後も会長に留任し、日本における事実上の影の最高権力者として君臨、このため実権を奪われた竹下との関係が悪化する。
派閥名が変わった今日でもこの派閥を経世会と呼称する人が多いのは、この時期の同派の影響力を物語っている。
リーダーの鉄の締め付けが残る経世会は「一致結束・箱弁当」と形容された。
高級官僚や米国高官が首相官邸よりもまず先に、竹下派の有力幹部が事務所を構える永田町のTBRビルを訪問していた。その様子は首相の権威の低下と竹下派(経世会)支配の象徴とされた。
元は竹下が会長だったが、留守を預かっていたはずの金丸が竹下退陣後も会長に留任し、日本における事実上の影の最高権力者として君臨、このため実権を奪われた竹下との関係が悪化する。
派閥名が変わった今日でもこの派閥を経世会と呼称する人が多いのは、この時期の同派の影響力を物語っている。
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≪経世界・金丸への評価≫
1989年から92年までは、自民党第一派閥である竹下派=経世会による自民党支配の時代でした。不思議なことに、竹下登自身は首相を1年あまりしか勤めていないのですが。
経世会は、まさに竹下・金丸派でした。金丸信という政治家がいてこそ、経世会は自民党支配をすることができたといえます。
金丸なくして竹下政権なし、竹下なくして金丸支配なし。人脈が広く、交渉術にたけた金丸の力なくして、竹下政権は成立しなかったでしょう。
1990年、北朝鮮を訪問。謎の対談
1990年、日本社会党のつてを頼り田辺誠らと訪朝団を編成。団長として北朝鮮を訪問する(金丸訪朝団)。
金丸と金日成が、日本語を用いて差しで対談を行う。しかしやり取りが文書として残っていないため、一体何を話したのかが謎となっている。この空白の数時間の間に取り決められたといわれる約束が、日朝の交渉においてしばしば「金丸さんが金日成主席と約束した」という形で北朝鮮側から持ち出されることがある。
このとき自民党の代表として国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、朝鮮労働党の3党で交した。
この約束は帰国後「土下座外交」と批判を浴びた。
このとき1983年に北朝鮮兵士閔洪九の亡命事件に関連して北朝鮮にスパイとして拿捕され7年間服役していた「第十八富士山丸」の日本人紅粉勇船長と栗浦好雄機関長の2名の釈放・帰国についても合意し、こちらは実行された。
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1992年、ヤミ献金が発覚し、失脚!
1992年8月22日、朝日新聞はあるスクープ記事を掲載しました。東京佐川急便の元社長、渡辺広康が、金丸に5億円献金したというものでした。これは立派な政治資金規正法違反でした。政界に波及する佐川急便事件の始まりです。
小沢は検察との対決姿勢を見せますが、オーナー・竹下は金丸に柔軟路線をとるよう説得します。こうして金丸は上申書の提出、略式起訴という形をとり、ことをおさめようとします。
しかし、1回も検察庁におもむかないまま、事情聴取もないままの処分に、国民から大きな批判が巻き起こります。連日ニュースはこのことで金丸を叩きます。金丸は、議員辞職を決意します。
こうしてあっけなく金丸は失脚しました。