広田レオナの父親、ジョージ広田はラテン歌手
広田レオナ(旧芸名、広田玲央名)は、1963年3月7日に北海道札幌市で生まれた。
父は札幌の事業家でラテン歌手のジョージ広田。実家はお手伝いさんが何人もいる裕福な家庭だった。その一方で、父には常に愛人がいて家にはほとんどいなかったという。
そんな父を愛する母親の廣田ミチ子は子育てよりも夫中心の人で、子育てはお手伝いさん任せだった。そして、父の会社が破産に追い込まれたときにレオナは夜逃げを経験した。
父は札幌の事業家でラテン歌手のジョージ広田。実家はお手伝いさんが何人もいる裕福な家庭だった。その一方で、父には常に愛人がいて家にはほとんどいなかったという。
そんな父を愛する母親の廣田ミチ子は子育てよりも夫中心の人で、子育てはお手伝いさん任せだった。そして、父の会社が破産に追い込まれたときにレオナは夜逃げを経験した。
只者でない雰囲気‥ジョージ広田とは一体… pic.twitter.com/Sv1Wgw2eHw
— RECORD SHOP NAKA/ナカレコ (@nakareco2) February 27, 2016
広田レオナの父親、ジョージ・広田は、札幌でミュージックパブ「ジョージの城」を経営。
2020年7月に亡くなった。
2020年7月に亡くなった。
広田レオナのバレエ留学・初めての海外はソ連
広田レオナは4才から札幌舞踊団でバレエを習っていた。子供の頃は身体が弱く、中学では壮絶ないじめにあっている。15才の時に留学オーディションに合格。1978年に1学期だけ通った高校を中退した。父の愛人問題が耐えない家庭から逃げるようにベルギーにバレエ留学した。
高校1年生の広田
15歳でベルギーのベルギー王立芸術学院に合格した広田レオナは、モーリス・ベジャールに師事した。とされているがいくつかの疑問がある。クラシックバレエを習っていて、モダンバレエが主流のベジャールに指示したことと当時のベルギーには王立のバレエ学校はなかったことだ。
広田レオナの留学先は、「エコール・ムドラ」と思われる。モーリス・ベジャールが現代バレエの個人的な哲学を具体化するために、1970年から1988年にかけてベルギーのブリュッセルに開設したダンススクールだ。
広田レオナの留学先は、「エコール・ムドラ」と思われる。モーリス・ベジャールが現代バレエの個人的な哲学を具体化するために、1970年から1988年にかけてベルギーのブリュッセルに開設したダンススクールだ。
via pixabay.com
1978年6月の為替相場は、1ドル=214円。留学はまだ高嶺の花だった。
ベルギーで使用される言語はオランダ語だが、ベジャールはフランス語で教えていたのだろうか。
スイスのローザンヌは、モーリス・ベジャールバレエの本拠地として知られているが、フランスの振付師モーリス・ベジャールは、1960年にブリュッセルで「ベルギー国立20世紀バレエ」設立した。1987年にローザンヌに移るまで、ベルギーに拠点を置いていたのだ。
モーリス・ベジャールは、2007年11月22日ローザンヌにて死去。享年80歳。
ベルギーで使用される言語はオランダ語だが、ベジャールはフランス語で教えていたのだろうか。
スイスのローザンヌは、モーリス・ベジャールバレエの本拠地として知られているが、フランスの振付師モーリス・ベジャールは、1960年にブリュッセルで「ベルギー国立20世紀バレエ」設立した。1987年にローザンヌに移るまで、ベルギーに拠点を置いていたのだ。
モーリス・ベジャールは、2007年11月22日ローザンヌにて死去。享年80歳。
via en.wikipedia.org
ベジャール率いる「ベルギー国立20世紀バレエ団」は広田が、オ-デションを受けた年の1978年5月に第2回日本公演で来日している。(第1回日本公演は1967年)
レオナは、ベルギーに行く時に日ソ親善大使の歌手としてソ連に歌いに行く父に同行してソ連に行った。広田レオナが初めて行った海外の国はソ連(ロシア連邦)。当時は、個人でソ連行くことはほぼ不可能だった。そして、ソ連からアンカレッジ経由で留学先のベルギーに向かった。
レオナは、ベルギーに行く時に日ソ親善大使の歌手としてソ連に歌いに行く父に同行してソ連に行った。広田レオナが初めて行った海外の国はソ連(ロシア連邦)。当時は、個人でソ連行くことはほぼ不可能だった。そして、ソ連からアンカレッジ経由で留学先のベルギーに向かった。
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バレエをやめて帰国~女優に
バレエ学校に留学中の18歳の時に振付中に腰を怪我してしまい、バレエを辞め帰国することになる。帰国後19歳の時に受けた映画オーディションに合格。1983年「だいじょうぶマイ・フレンド」でピーター・フォンダの相手役として女優デビューした。風変わりな個性派女優として映画・テレビドラマを中心に活躍した。
広田レオナ19歳
映画「だいじょうぶマイ・フレンド」
映画「だいじょうぶマイ・フレンド」村上龍が自身の小説を監督した。当時の広田レオナは、まだボーイッシュな清純派だった。映画の冒頭では19歳のグラマラスなヌードを披露している。
女優をやめて、結婚
20歳のときに映画でデビューしたものの、女優デビューしたものの仕事にやりがい見出せなかった広田は、1987年に芸能界から逃げるように、医者を名指す男性と親の反対を押し切り結婚した。1988年4月に息子(俳優の雅裕マーク)を出産するが、夫は家に帰って来なくなる。お金は尽きて1990年に離婚。養育費が払われることはなく息子と2人スーパーの食品売り場の試食で空腹を紛らわすこともあった。
1991年公開の鈴木清順監督の映画『夢二』で女優に復帰。この作品で、広田レオナは、女優の面白さに目覚めた。
1991年公開の鈴木清順監督の映画『夢二』で女優に復帰。この作品で、広田レオナは、女優の面白さに目覚めた。
by Erling Mandelmann - 2.jpg 作成: 1988年