1980年代、綺羅星のごとく登場したアイドル。
狭き門を超えて芸能界デビューしても、そのまま芸能界で栄光を手にする人はごく僅か。
大半は人知れずその舞台から去って行っただろう。
しかし、挑戦する人の数だけストーリーは存在する。
なかには芸能界という舞台に留まらず、自身の志したフィールドにチャレンジして輝きを増し続ける人も。
今回は10代でアイドルとして芸能界デビュー、20代ではOLの傍ら将来のために学び、30代から再びご自身の夢を追いかける、桜香純子さんにお話を伺った。
狭き門を超えて芸能界デビューしても、そのまま芸能界で栄光を手にする人はごく僅か。
大半は人知れずその舞台から去って行っただろう。
しかし、挑戦する人の数だけストーリーは存在する。
なかには芸能界という舞台に留まらず、自身の志したフィールドにチャレンジして輝きを増し続ける人も。
今回は10代でアイドルとして芸能界デビュー、20代ではOLの傍ら将来のために学び、30代から再びご自身の夢を追いかける、桜香純子さんにお話を伺った。
”人生をいくつも生きてみたい”想いを描き行動する桜香純子さん
1988年にフジテレビとソニー、集英社が合同で開いた「平成のキャンディーズを作る」オーディション。
これに見事合格し、13歳の春に秋田から単身上京して芸能界デビューしたのが桜香純子さん(当時、河田純子)だ。
これに見事合格し、13歳の春に秋田から単身上京して芸能界デビューしたのが桜香純子さん(当時、河田純子)だ。
10代で芸能界という夢を叶えた後、20代、30代、40代も変わらず自身の想いを形にし続ける彼女。
一見すると非連続にも映るチャレンジ人生、けれど一貫して変わらない想いで歩み続ける桜香さんに、ミドルエッジ編集部(ミド編)はお話を聞く機会をいただくことが出来た。
一見すると非連続にも映るチャレンジ人生、けれど一貫して変わらない想いで歩み続ける桜香さんに、ミドルエッジ編集部(ミド編)はお話を聞く機会をいただくことが出来た。
中学2年で秋田から単身上京!芸能界を志したきっかけは何でしたか?
芸能界を志したのは“様々な人生を経験したい”と思ったことがきっかけでした。小学4~5年生の頃「このまま秋田で生きる人生を選んだら一つの人生しか生きられないなぁ・・・」と考えていたところ、「役者になったら、色々な人の人生を生きられる!」と思ったんです。それで芸能界を志しました。
幼いころはままごと遊びに木登りや虫遊び、テレビドラマを観るのも好きだった桜香さん。
何でも自由に主体的に決めさせてくれたご両親の元で子供のころから「早く結婚して子供が欲しい」「何かの面倒を見たい」と思う、少しマセた一面もあったそうです。
やがて「色々な人の人生を生きたい!経験したい!」と思うようになった彼女は芸能界を志し、中学生になってオーディションを受け始めます。
何でも自由に主体的に決めさせてくれたご両親の元で子供のころから「早く結婚して子供が欲しい」「何かの面倒を見たい」と思う、少しマセた一面もあったそうです。
やがて「色々な人の人生を生きたい!経験したい!」と思うようになった彼女は芸能界を志し、中学生になってオーディションを受け始めます。
当時は「国民的美少女コンテスト」など、オーディションブームでした。私も地元や東京でオーディションを受けて、書類審査で落ちたこともありましたけど、全国大会で2位に選ばれたことが2回ありました。
ただ、なかなか1位にはなれなくて・・・“もう1回だけ”と最後に受けたのがフジテレビとソニーと集英社の合同オーディションでした。裕福な家庭ではまったくなかったので、そう何度も東京へオーディションを受けに行けませんから。母に「これが最後だよ」と言われて受けたオーディションでしたね。
「平成のキャンディーズを作る」という3人組を募集したオーディションは結果として桜香さん一人が見事合格。
中学2年5月に単身上京してソニーの寮に入り、10ヶ月間のレッスンを経ての歌手デビューでした。
中学2年5月に単身上京してソニーの寮に入り、10ヶ月間のレッスンを経ての歌手デビューでした。
”アイドルの氷河期”と呼ばれた時代をストイックに過ごす
実は、初仕事はデビュー前で、テレビCMに出演しました。AIWAのシュトラッサーというミニコンポのCMで、米米クラブさんがCMソングを歌われてたんですけど…AIWAご存知ですよね??今はないんでしたっけ!?
あとはレッスンしたり、雑誌の撮影をしたり、志村けんさんの『だいじょうぶだぁ』に出たりとかもしていました。私が受けたオーディションがフジテレビの『志村けんのだいじょうぶだぁ』、集英社の「DUNK」というアイドル雑誌、それとソニーの合同オーディションだったので。審査員には志村けんさんや当時ヒットメーカーの後藤次利さんもいらっしゃって。
私のデビュー曲から3曲目までは後藤次利さんが作ってくれましたし、デビュー前に『志村けんのだいじょうぶだぁ』で“だいじょうぶだぁギャルズ”もやっていました。デビューと同時に“だいじょうぶだぁギャルズ”は卒業になり、歌手活動がメインになりましたけど。
自身の中2を顧みて、なんだか気恥ずかしい気持ちになるミド編。
AIWAのミニコンポを母親にねだり、月曜夜8時の「だいじょうぶだぁ」にひたすら爆笑していたあの頃…
単身の寮生活だった桜香さんは当時、学校の授業が終わればすぐにレッスンか仕事。
ダンスや歌のレッスンをしたりで、あっという間にデビューという感じだったそうです。
デビューから20歳で芸能界を引退するまでの間、プライベートも仕事と考えていたという桜香さんは、10代をストイックに仕事に打ち込みました。
AIWAのミニコンポを母親にねだり、月曜夜8時の「だいじょうぶだぁ」にひたすら爆笑していたあの頃…
単身の寮生活だった桜香さんは当時、学校の授業が終わればすぐにレッスンか仕事。
ダンスや歌のレッスンをしたりで、あっという間にデビューという感じだったそうです。
デビューから20歳で芸能界を引退するまでの間、プライベートも仕事と考えていたという桜香さんは、10代をストイックに仕事に打ち込みました。
いまと違って「アイドル」はまるで別世界のことでした
今のような“会いに行けるアイドル”というのでは無かったですね。ただ、私がデビューした1989年は、俗に“アイドルの氷河期”と言われていて。それまで人気だった歌番組とかが直前にすべて無くなったり、アイドルには厳しい時代を迎えつつありました。
とはいえ、私は1989年デビュー組にしては恵まれた環境だったと思います。ソニーさんから売り出して頂いてCDも写真集も沢山出させて頂いて、ツアーも組んで頂いたりと本当に恵まれていたと思います。
デビューからの8年間を芸能界で活躍した桜香さんは、20歳のときに芸能界を引退。
その後、1年間のウェイトレス(アルバイト)を経てOLへと転身されます。
その後、1年間のウェイトレス(アルバイト)を経てOLへと転身されます。
「青春時代」だった20代、再び想いを形にし始めた30代
芸能界を辞めてから最初の1年間はウェイトレスをやって、その次は事務作業がとにかく好きだったので、“OLをやりたい”と思って20代はOLをしていました。20歳からが私の青春時代かもしれません。OLの同僚とランチに行ったり、いわゆる普通の楽しいことをたくさん経験しました。
そして、30歳になったら本当にやりたいことをやろうと考えて、20代の頃から色々勉強し始めて、心理カウンセラーを目指して準備をはじめました。30歳になって今の世界に入ったんです。
秋田県出身。
中学2年生の時にCBSソニー(当時)より歌手デビュー。
シングルCD・アルバム・エッセイ集・写真集など多数発売。
1989年にクリスマス限定企画で中山忍、田山真美子とアイドルユニット「楽天使」を結成。
20歳で芸能界を引退し、その後9年間の会社勤務を経た後、美容と健康と心理の世界へ転身。
2009年に内面と外面から女性の美と健康と幸せをサポートする『サロン・ド・エンジェル・エンジェル』を都内でオープン。
現在はサロン経営、メンタルカウンセラー養成、商品開発、講演活動の他、ケニアでの美容・健康・スクール事業にも携わる。