ヤングおー!おー!
吉本芸人とゲスト歌手で構成された公開生放送バラエティだ。
最初の“漫才ブーム”の火付け役でもあり、関西ローカルだった当時の吉本若手芸人たちを一気に全国区に押し上げた
首都圏では番組の開始当初はNET(現在のテレビ朝日)で放映⇒わずか3ヶ月で東京12チャンネル(現在のTV TOKYO)へ移行、1975年4月からは俗に言う「腸ねん転ネット解消」に伴いMBSは現在のTBS系列にネットチェンジ、TBSでの全国ネット放映へ。
初代司会者は、桂三枝と落語家の笑福亭仁鶴が務めました。そして進行役は斎藤努が担当しています。
初代司会者の桂三枝(6代目)
1943年7月16日生まれ。大阪府堺市出身。
落語家、タレント、司会者、社団法人上方落語協会会長。上方落語の名跡『桂文枝』の当代で、前名は桂 三枝(かつら さんし)。
現在、同一司会者によるトーク番組の最長放送世界記録保持者として、記録更新中である。
落語家、タレント、司会者、社団法人上方落語協会会長。上方落語の名跡『桂文枝』の当代で、前名は桂 三枝(かつら さんし)。
現在、同一司会者によるトーク番組の最長放送世界記録保持者として、記録更新中である。
初代司会者の笑福亭仁鶴
1937年1月28日生まれ。大阪市生野区出身。
落語家。
出囃子は「猩々くずし」または「だんじり」。妻は吉本新喜劇に在籍した永隆子。当たりギャグは「どんなんかな〜」。
1960年代から1970年代にかけては、月亭可朝や桂三枝(現:6代桂文枝)と共に、吉本興業の顔としてテレビ、ラジオ、映画、レコードに多数出演したほか、花月劇場チェーンへの出演と大活躍し、『ヤングおー!おー!』(MBSテレビ)を通じて全国区のタレントとなった。
落語家。
出囃子は「猩々くずし」または「だんじり」。妻は吉本新喜劇に在籍した永隆子。当たりギャグは「どんなんかな〜」。
1960年代から1970年代にかけては、月亭可朝や桂三枝(現:6代桂文枝)と共に、吉本興業の顔としてテレビ、ラジオ、映画、レコードに多数出演したほか、花月劇場チェーンへの出演と大活躍し、『ヤングおー!おー!』(MBSテレビ)を通じて全国区のタレントとなった。
via www.1101.com
番組内容
番組の内容は、公開放送形式で、吉本興業の若手芸人と一般視聴者(観客)によるゲーム企画や、吉本の芸人によるコント、漫才の他、ゲストのアイドルの歌やトークもあった。中には東京キー局制作の番組でも出演しない大物のアーティストが突如登場することもあった。
番組の収録は初期の大阪市北区の「うめだ花月」を皮切りに、同区・中之島の「SABホール」(後のリサイタルホール。2007年閉鎖)での公開収録を長年にわたって行ってきました。その後、末期に吹田市のMBS千里丘放送センター内にあった公開ホール「ミリカホール」からの生放送で行われていました。
桂文珍。
1974年に、『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」(月亭八方・きん枝・4代目林家小染)に参加。若い頃は高座で「芸名桂文珍、本名瀧廉太郎でございます」と名乗ったり郷里の篠山をネタにするなど、「丸眼鏡で地味な落語家」というイメージが強かった。
後にさんまが加入し「SOS(サニー&オオサカ・スペシャル)」に改名、紳助・竜介、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんちが加入し「チンチラチン」を結成。
1974年に、『ヤングおー!おー!』のユニット「ザ・パンダ」(月亭八方・きん枝・4代目林家小染)に参加。若い頃は高座で「芸名桂文珍、本名瀧廉太郎でございます」と名乗ったり郷里の篠山をネタにするなど、「丸眼鏡で地味な落語家」というイメージが強かった。
後にさんまが加入し「SOS(サニー&オオサカ・スペシャル)」に改名、紳助・竜介、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんちが加入し「チンチラチン」を結成。
via blogs.c.yimg.jp
月に1回の割合で関東地方での収録があり、その他ネット局の制作協力で日本各地の地方公開録画もありました。当番組もその模様を茶の間ではなくホール会場で直接見たい場合は、前もってネット局宛に観覧したい旨のハガキを送らなければいけませんでした。そうすれば厳正なる抽選の上、スタッフから視聴者宛に当選通知票(いわゆる入場整理券)を送ってもらえました。ただし、ハガキ1枚につき3人一組であることが条件でした。
しかし、 「ヤングおーおー」 は人気があり、当選するのが難しかった。
via www.e-sanshi.net
豪華な吉本芸人が出演!!
via pbs.twimg.com
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ラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビバージョン。