「ミス・アイドルコンテスト」が開催!
1978年から1981年の毎年5月から7月頃には、「ミス・アイドルコンテスト」が開催された。毎週5人の出場者が登場しチャンピオンを決め、さらに、グランドチャンピオン大会でグランドチャンピオンに選ばれると、賞金$1000と日本航空で行く海外旅行がプレゼントされた。しかし、番組が事前収録のため、優勝者が番組放送前に『TVガイド』に載ってしまうという出来事もあった。
番組で紹介された音楽についてのツイッター
シルバースターズ / Lady " ”
— kageyamajunko (@juncoon) November 24, 2015
ヤングおーおーW(`0`)W https://t.co/2EWHLhI3F4
同じ投稿者のこれも貴重。80年NYでの『ヤングおー!おー!』 青木和雄かな?のインタヴュー映像。https://t.co/DoVbQJtRh4 舞台についてや京都に家を買う話など。このときのボウイの浮世離れ感も半端ない! pic.twitter.com/YS6VT2tWk1
— 岩井 (@bowie20160110) January 21, 2016
【発掘】《テレビ局にも現存しない貴重な映像》1978年1月29日放映の毎日放送(TBS系)『ヤングおー!おー!』を録画した家庭用VTR(オリジナルはカラー)。※某サイトに投稿された動画です。 #キャンディーズ pic.twitter.com/URJpv8DTht
— キャンディーズ情報局@PETER (@candies_news) July 22, 2016
番組の後期と終了後について
1980年9月末の放送をもって、初代司会を10年以上担当した三枝が、若手芸人へと道を譲ることを理由として降板(同時に進行役の川村ひさしと近藤光史アナウンサーも降板)。
同年10月より、三枝直々の指名によりさんまがメイン司会者に昇格するとともに、そのアシスタント役としてさんまの同期に当たり、無名時代から何かと共通の仕事が多かった縁から島田紳助・松本竜介を、近藤の後継の進行役として青木和雄アナウンサーをそれぞれ起用(1982年4月からの最末期はさんま・紳竜とともにそれまでレギュラー扱いでの出演だったオール阪神・巨人、太平サブロー・シローも司会陣に昇格、4組のうち3人が週替りで総合司会を担当。また川村も同改編を機に番組を降板している)。
この司会者交代を機に、さんまよりも芸歴の長いレギュラー陣の落語家たち(文珍、八方、小染ほか)も番組からもフェードアウトする一方、当時のMANZAIブームの時流に対応してザ・ぼんちや西川のりお・上方よしおなど、三枝司会時代に番組内ユニット「チンチラチン」を構成していながらも、「ザ・パンダ」の前に影が薄かった若手〜中堅の漫才コンビが主要キャストとして番組をリードする存在として頭角を現し始め、視聴者の間でも番組内容の変質が強く意識されるようになっていった。
最終回は、エンディングで「今回でお別れ!」と言ったあと、ラストで制作スタッフのクレジットタイトル(番組終了当時)のロールと共に、スタート当時の当番組における若かりし頃の三枝、ザ・パンダ、斎藤努らの姿(VTRが現存していないため白黒写真を使用した)を背景にして別れのメッセージとした。
1982年9月に番組終了、テレビ版「MBSヤングタウン」の位置づけは同じ年の10月開始の笑福亭鶴瓶の「突然ガバチョ」へ引き継がれました。「突ガバ」もMBSの千里丘放送センターでの公開収録でした。
長寿バラエティ番組「ヤング おー! おー!」の放送終了が1982年か。その頃にはすでに、タイトルの『ヤング』という言葉が相当キツくなっていたような。そして80年代後半が始まるころには、泉麻人が「ナウなヤングにバカウケ」みたいな言い回しを揶揄の対象にしていた。
— akio (@akio_st) June 22, 2016
ラジオの方は、まだ続いています!!
ラジオの「MBSヤングタウン」ですが、昭和期は毎日オンエアされてましたが、現在は土日の夜のみの放送、土曜は明石家さんまメイン・日曜は笑福亭鶴瓶メインの番組となってます。