佐々木 信也(ささき しんや)プロフィール
生年月日 1933年10月12日
出生地 東京都世田谷区
出身地 神奈川県藤沢市
身長
体重 169 cm
76 kg
出生地 東京都世田谷区
出身地 神奈川県藤沢市
身長
体重 169 cm
76 kg
経歴
via ja.wikipedia.org
1933年10月12日に東京都世田谷区で誕生した佐々木さん。
疎開( 戦争避難)で小学3年の時に藤沢市に移住された佐々木さん、その頃から野球を始められ、1949年に湘南高校に入学すると、第31回の夏の甲子園大会に1年生ながら出場し優勝されています。
因みに、関東圏の高校が優勝したのは第2回大会(1916年)の慶應普通部以来33年ぶりで、「深紅の優勝旗が箱根の山を越えた」と当時は話題になったとか・・・。
疎開( 戦争避難)で小学3年の時に藤沢市に移住された佐々木さん、その頃から野球を始められ、1949年に湘南高校に入学すると、第31回の夏の甲子園大会に1年生ながら出場し優勝されています。
因みに、関東圏の高校が優勝したのは第2回大会(1916年)の慶應普通部以来33年ぶりで、「深紅の優勝旗が箱根の山を越えた」と当時は話題になったとか・・・。
空襲乗り越え、無欲の全国制覇 湘南・佐々木信也さん - 高校野球:朝日新聞デジタル
その日の横浜は朝から薄曇りだったと、県高校野球60年史(県高野連発行)は伝えている。 1949年8月、全国高校野球選手権の神奈川大会決勝で湘南が県商工を3―1で破り、甲子園初出場を決めた。 当時1年…
大学野球時代
via ja.wikipedia.org
1952年に慶應義塾大学に進学すると、二塁手として活躍、4年次には主将を務め東京六大学野球リーグでは1年生時の1952年春季リーグで優勝を経験(佐々木さんは出場せず)
その後は2位2回にとどまり優勝には届かなかったそうですが、特に慶早戦では大活躍し、「慶早戦男」と呼ばれていたそうです。
その後は2位2回にとどまり優勝には届かなかったそうですが、特に慶早戦では大活躍し、「慶早戦男」と呼ばれていたそうです。
高橋ユニオンズ入団
via ja.wikipedia.org
佐々木さんは、大学卒業後は当時北海道にあった東洋高圧の野球部に入部する予定でしたが、高橋ユニオンズの誘いを受けたため、1956年にユニオンズに入団されています。
「高橋ユニオンズ」は1954年から1956年まで3年間活動した日本のプロ野球球団で、パリーグに所属した現在の千葉ロッテマリーンズの系譜に属します。
「高橋ユニオンズ」は1954年から1956年まで3年間活動した日本のプロ野球球団で、パリーグに所属した現在の千葉ロッテマリーンズの系譜に属します。
プロ野球時代
入団した1956年には、新人ながら154試合に全イニング出場。154試合出場はシーズン試合出場の日本タイ記録。
その後、翌年の1957年には、「大映ユニオンズ」に代わり更に1958 年には毎日オリオンズと対等合併して「大毎オリオンズ」となり、それぞれの新球団に在籍されています。
しかし、この頃から出場機会が減少しています。
その後、翌年の1957年には、「大映ユニオンズ」に代わり更に1958 年には毎日オリオンズと対等合併して「大毎オリオンズ」となり、それぞれの新球団に在籍されています。
しかし、この頃から出場機会が減少しています。
出場機会が減少した佐々木さん、1959年限りで現役引退されました。
後のエピソードとして、本人が1960年の監督に内定していた西本幸雄さんとの確執を明かしています。
更に、同時期に読売ジャイアンツの水原茂監督から誘われたが、球団フロントが獲得を疑問視していることが新聞に掲載された(読売新聞の重役が「毎日新聞をクビになった選手を取っては読売のメンツがつぶれる」と言って反対したともされる)ことにより、慶応大学の先輩でもあった水原さんに迷惑はかけられないと入団を辞退したとか・・・。
後のエピソードとして、本人が1960年の監督に内定していた西本幸雄さんとの確執を明かしています。
更に、同時期に読売ジャイアンツの水原茂監督から誘われたが、球団フロントが獲得を疑問視していることが新聞に掲載された(読売新聞の重役が「毎日新聞をクビになった選手を取っては読売のメンツがつぶれる」と言って反対したともされる)ことにより、慶応大学の先輩でもあった水原さんに迷惑はかけられないと入団を辞退したとか・・・。