ノーヒットノーラン達成「巨人の天敵」へ
愛媛県立丹原高校から1992年にドラフト3位で中日に入団した野口投手は、入団3年目から一軍に定着。ペナントレースから脱落したチーム状況下において若手育成の観点から先発に起用されていきます。コントロールの悪さから自滅し、最終的には3勝10敗という成績だったものの、要所で三振を獲っていく投球に能力の片鱗は見せていました。
そして入団4年目の1996年シーズンも野口投手は勝ったり負けたりを繰り返していましたが、8月11日東京ドームで行われた対巨人戦。コントロールに苦しみ、四死球6個を与えながらもノーヒットノーランを達成。この大記録を達成したのを機に、野球ファンにとっては野口投手の名前が強く印象付けられる事になるのです。
落合選手へ・・・
via youtu.be
ちなみに同じ年の8月31日ナゴヤ球場で行われた巨人戦で落合選手に死球を与えて骨折させてしまう事になり、巨人ファンにとっては「天敵」として意識される事になりました。
中日の大エースに
ノーヒットノーラン後、飛躍が期待された野口投手でしたが、その翌年肩を怪我し未勝利に終わります。1998年は宮田征典コーチの指導により、課題であったコントロールが飛躍的に改善。チーム最多タイとなる14勝(9敗)を挙げ、最優秀防御率のタイトル(2.34)を獲得。
翌年も19勝7敗の成績を残し、リーグ優勝に大きく貢献。野口投手は自他共に認めるドラゴンズのエースになっていきます。※19勝を挙げたものの、この年巨人に入団一年目の上原投手が20勝を挙げた為に最多勝は獲れず、野口投手は結局プロ生活で1度も最多勝を獲れませんでした。
1999年中日ドラゴンズ優勝決定
via youtu.be
2001年、野口投手は12勝(9敗)を挙げ、2度目の最優秀防御率のタイトル(1.01)と初の最多奪三振(187奪三振)を獲得するなどの活躍を見せましたが、この年をピークに次第に成績は下降していきます。(2002年2勝1敗、2003年9勝11敗、2004年4勝8敗、2005年3勝6敗)
巨人にFA移籍
そして2005年のシーズンオフに野口投手はFA権を行使。2年契約の年俸1億円で巨人に移籍します。
via ord.yahoo.co.jp
実績は申し分なく、特に巨人にとってはノーヒットノーランを達成されるなど「天敵」という存在だったものの、この様な「低評価」の契約に落ち着いたのは、野口投手が2年続けて不本意な成績に終わっていた事への評価の現れだと言えるでしょう。この契約に対して、2年1億でかってのドラゴンズの大エースを獲得できるなんて安い買い物だ、と言う意見と、もう終わった選手をFAで獲るなんて相変わらず巨人はFA補強が下手だと言う意見の真っ二つに別れていました。
via pds.exblog.jp
ちなみにこのFAの人的補償として、小田幸平選手が中日に移籍する事になりました。巨人入りしたものの、先発投手陣に加わる事が出来なかった野口投手は2006年1試合のみの出場。勝敗つかずという成績に終わります。
翌2007年はリリーフに登板していたのですが、夏場以降は打ち込まれる事が多くなり、2008年に巨人から戦力外通告を受けました。
ちなみに人的補償で中日に移籍した小田選手が谷繁選手の貴重な控えとして働いていた事から、巨人はまたも「FAで失敗した」と批判される事になります。(結局小田選手は9年間中日に在籍します)
ちなみに人的補償で中日に移籍した小田選手が谷繁選手の貴重な控えとして働いていた事から、巨人はまたも「FAで失敗した」と批判される事になります。(結局小田選手は9年間中日に在籍します)