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人物
都並敏史(つなみ さとし)
生年月日:1961年8月14日
出身地:東京都世田谷区
身長:173cm、体重:65kg
1980年に現在の東京ヴェルディの前身である読売クラブに所属。
1993年のJリーグ開幕後もヴェルディの一員として奮闘し、クラブの黄金期を築いたと言われています。
19歳の時に日本代表に選出され、長きに渡って活躍しましたが、37歳の時に引退を決意。
その後は指導者の道へ進み、監督や東京ヴェルディのコーチを務め、現在はサッカー解説者として活躍しています。
初イエロー
Jリーグ開幕戦においてもらったイエローカードはJリーグの警告第1号選手の名誉(?)となった。
異名は「狂気の左サイドバック」
(書籍「狂気の左サイドバック 」解説)
弱冠19歳で日本代表に選ばれた不動の左サイドバック、都並敏史。
小学生の頃から代表チームを追いかけ続ける、日本一のサポーターでもあった彼は、1993年、夢のW杯出場にあと一歩と迫った。
だが最終予選直前、悪夢が襲った。
左足首の疲労骨折―サッカーを愛しすぎたがゆえの代償は、日本サッカーにとっても致命傷となってしまった…。21世紀国際ノンフィクション大賞受賞の傑作ルポ。
所属クラブ
1980~1995年
読売サッカークラブ(途中からヴェルディ川崎にチーム名変更)
1996~1997年
アビスパ福岡
1997~1998年
ベルマーレ平塚
読売サッカークラブ(途中からヴェルディ川崎にチーム名変更)
1996~1997年
アビスパ福岡
1997~1998年
ベルマーレ平塚
ドーハの悲劇
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1993年10月28日、アメリカW杯予選を戦っていた日本は、カタール・ドーハでのセントラル方式の最終予選
首位に立っていた日本は、最終戦のイラク戦に勝てば文句なしのW杯初出場、引き分けてもサウジアラビアと韓国の結果次第では悲願達成という優位な状況だった。
試合は日本の1点リードのまま終盤に入り、W杯出場まで残りわずかというところまで迫った。
日本対イラク戦より数分早く終了した他会場では、サウジアラビアと韓国がともに勝利。
かつ韓国は日本の得失点差を上回る3点差をつけて勝利していた。
そうした状況で迎えていたロスタイム、ほぼラストプレーとも言えるイラクのCKから、オムラム・サルマンにヘディングでゴールネットを揺らされ、日本は土壇場でW杯出場を逃したのだった。
都並敏史のドーハ
1993年5月サンフレッチェ広島戦で接触した際に左足首を負傷。
チームの選手事情により強行出場を続けた結果、7月に左足首の亀裂骨折が判明した。
同年10月のアメリカW杯アジア最終予選メンバーには選出されたものの、試合出場は不可能な状態だった。
都並は骨折箇所にボルトを埋め込み、痛み止めの注射を打つことで通常の練習メニューをこなしたが、最終予選での出場機会はなかった。
選手生命を絶たれる恐れもあったが、当時は日本代表への思い入れだけでリスクなど全く考慮に無く、「あの時は、狂っていたのかも知れない」と後に回想している。