サッカー協会No.3にまで登りつめた原博実!現役時代の活躍を含め、振り返ります!
2016年11月25日 更新

サッカー協会No.3にまで登りつめた原博実!現役時代の活躍を含め、振り返ります!

1980年代、日本サッカー「冬の時代」。ゴールで熱く盛り上げてくれた原博実。現役時代の活躍をはじめ、クラブ監督時代や日本サッカー協会での功績にも触れます。

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「アジアの核弾頭」と呼ばれた 原博実

サッカー選手・指導者・解説者。
ポジションはフォワード。
1958年10月19日生まれ。栃木県出身。

矢板東高校から早稲田大学を経て三菱重工業に入社。
日本代表として国際Aマッチ75試合出場(歴代4位)/37ゴール(歴代3位)という輝かしい実績を残し、「アジアの核弾頭」との異名を取った。
1992年現役引退。
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日本代表時代
1983年頃 ロサンゼルス五輪予選

原博実の変遷

大学時代に頭角を現す

小学5年生時からサッカーに傾倒し、中学生の頃には長身を活かしたヘディングを得意とした。
1974年に矢板東高校へ進学し、栃木県選抜として国体でベスト4入り。当時は西ドイツのFWウーヴェ・ゼーラーのプレーを参考にしていた。

1977年に早稲田大学教育学部へ進学。
1978年の総理大臣杯では法政大学を相手に得点を重ねて優勝を果たした。大学選抜として参加した1979年のユニバーシアードでは、ゼーラーに影響されて身に付けた相手よりも早く跳ぶヘディングで海外の190cmクラスのセンターバックを相手にしても競り負けず8試合で7得点を挙げた。

A代表に選出されても偉ぶらず真剣に練習に取り組む姿勢は周囲からの信頼を集め、大学4年時には主将を務めた。
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日本代表 後列右から2番目
1987年頃 ソウル五輪最終予選

三菱重工業でエースストライカーとして活躍

1981年に三菱重工業に入社し(勤労管理課)、日本サッカーリーグ(JSL)の同社サッカー部(のちに三菱自動車サッカー部。現在の浦和レッドダイヤモンズの前身)に所属。

ポジションはフォワード(FW)で、エースストライカーとして活躍した。
中盤の構成力に欠ける三菱では、田口光久らが原を目掛けてフィード、原が頭で落とし、川添孝一らがゴールを狙うというシンプルなカウンター攻撃も多用された。

1982年には尾崎加寿夫と共に得点源となりJSL優勝を達成。
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日本代表時代
1987年頃 ソウル五輪最終予選

Jリーグ開幕目前に引退

社員選手としてプレーを続けていたが、31歳の時にJリーグ参入を控えるクラブからの呼び掛けに「サラリーマンやるために三菱に入ったわけじゃないから」と応じてプロ契約を結び三菱重工業を退社した。

Jリーグでのプレーを望んでいたが、コーチ就任を要請されたため、1992年5月に現役を引退。

臆せず競り合いに臨んでいたため、鼻骨骨折は現役通算で9度に及んだ。

日本代表の歴代通算得点で第4位

日本代表の歴代通算得点において第4位に位置している原博実。
通算のキャップ数は75試合。その内ゴール数が37得点と、平均でほぼ2試合に1得点を取っていた。

原が現役当時はアジアの壁を破れず、W杯予選でことごとく敗退していた時代。
まだアジアの弱小国だった日本サッカーの実力を考慮すれば、より驚くべき数字ではないだろうか。

ちなみに原より上位には、第1位の釜本邦茂(75得点)、第2位の三浦知良(55得点)、第3位の岡崎慎司(48得点)がいる。
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第1位の釜本邦茂(かまもと くにしげ)

引退後は指導者へ

FC東京に初タイトルをもたらした!

1998年、満を持して浦和の監督となり、2ndステージでは3位に入りましたが、翌99年は苦戦。1stステージは最終節の名古屋戦で1-8の大敗を喫すると、監督を解任されました。この時は13位でしたが、結局浦和は年間15位に落ちてJ2降格となります。

その後、テレビ解説者を経て原が監督となったのは、2002年のFC東京でした。

攻撃サッカーを掲げた原によりFC東京は前進し、同年の2ndステージから2005年の1stステージまで6位以内、2004年にはクラブ初タイトルとなるナビスコ杯優勝も達成しました。しかしリーグ制覇はできず、1年挟んで5シーズンの在任期間は2007年で終わりました。
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2005年の退任時は、続投を訴えるサポーターから、スタジアムに幕も張られた
監督としては、若手を積極的に起用し、奮起を促す場面が多く見られた。
浦和レッズ監督時代は、若手だった山田暢久を主将に据え、責任あるポジションに置いた。

また、サッカーのシステムで4バックを多用し、攻撃的な布陣を敷く特徴があった。
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