酒井法子  のりピーのNext
2024年10月27日 更新

酒井法子 のりピーのNext

のりピー語でアイドルとして大ブレイク。歌手としても女優としても確固たるポジションをキープ。有名作家と別れて1年後、サーファーとできちゃった婚 。その後、待っていたイバラ道。すべてを乗り越え、酒井法子の真の挑戦が始まる。

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酒井法子は、1971年2月14日 に福岡県で生まれ、2歳のときに両親が離婚し、父親の実家である佐賀県の寺に預けられ、さらに数年後、東京近郊に住む父親の姉の家に引っ越し。
幼く状況が把握できない酒井法子は、伯母を、
「お母さん」
新聞記者をしている伯父を
「お父さん」
7歳上の従兄弟を
「お兄ちゃん」
と呼び、本当の家族だと思いながら育った。
父親が再婚し、小学校2年生のときに福岡県へ戻り、義母(父親の再婚相手)、まだ赤ん坊の義弟の4人暮らし。
義母を
「ママ」
と呼んだが、お母さん(伯母)と違って厳しく、叱られるときはビンタが飛んできた。
「福岡に来てからは怒るとおっかないからねだらなくなった」
という酒井法子は、小学校5年生のとき、自ら帰りたいと希望し、関東のお母さんの家に戻った。
父親が再再婚したため、小学校卒業まで1ヵ月というタイミングで、再び福岡に転校。
3番目の母親と出会い、最初、
「こんにちは」
と挨拶され、
(美人で優しい人だな)
と思った。
こうして博多湾に近い福岡の中心部にある3LDKのマンションで3人暮らしを開始。
1ヵ月間だけ小学校に通って中学校に進むとソフトボール部に入部。
福岡の中学で屈指の強さを誇る、厳しいソフトボール部で、授業が終わると2~3時間、声を出しながら走って、キャッチボール、素振り、ノック、筋トレとみっちり練習。
練習後のグラウンド整備もロープをつけたタイヤを引っ張って行い、雨の日も雪の日も、顧問に
「お前ら、ボールがみえなくなるまで練習じゃ」
といわれて練習。
練習中、酒井法子が
「肩が痛いです」
と訴えても
「投げ方が下手ったい」
と休ませてくれず、
「星飛雄馬の世界が、そこにはあった」
真っ暗になるまで練習した後は、部活の仲間と一緒に禁じられている買い食いをしながら帰り、帰宅後も夜遅くまで電話をかけ合った。
食べることと共に着るものに対する執着もすごく、長いスカートを履きたくて、セーラー服のウエストを縫い上げて長くみえるように工夫し、カバンはペタンコにした
福岡出身のチェッカーズが流行り、仲間とその話で盛り上がり、中森明菜や小泉今日子も人気があったが、酒井法子の1番は変わらず松田聖子。
矢沢永吉も好きで、朝の目覚めには「「Rockin' My Heart 」を聴いた。
異性には奥手で、小学生時代、1人だけ好きになったが、まったくしゃべることができなかった。
中学では3年間で2人の男子を好きになり、1人目は野球部で、ラブレターを書いて、プレゼントも贈った。
中身はフェルトで野球のアップリケと彼の名前をくっつけた手作りの巾着袋だったが、遠くから投げるように渡した。
廊下で相手が向こうからくると後ろを向いて逃げ、一緒に歩くどころか、まともに会話することもなく、
「向こうも好きらしい」
と友達から聞くだけで満足し、後は妄想にふけるだけで終わった。
2人目は、想いを伝えた後、自転車に乗って彼の新聞配達に付き合った。
ドキドキして張り切りすぎて大きなガラス戸に激突し、おでこと上唇を強打。
何もなかったフリをして帰ったが顔は大きく腫れ上がり、それっきり恥ずかしくて会えなくなった。
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酒井法子は父親を
「パパ」
と呼んでいたが、義母には、
「ママっていわれるのは嫌だから、お母さんって呼んでほしい」
といわれ、その通りにした。
お母さんは中洲のクラブで働いていて、酒井法子が学校から帰ると卵焼きや唐揚げ、カレーなどがつくってあり、それを食べていると出かけていった。
そしてどんなに遅くに帰ってきても、ご飯をつくり、酒井法子を起こして一緒に食べ、玄関で登校を見送った。
お母さんはいつも
「男の子を家に呼んじゃダメ」
と注意していた。
あるときお母さんが仕事に出た後、女友達が家に来て遊んでいたが、何かを受け取るために男の子を呼んだ。
それをみたマンションの管理人が夜中に帰ってきたお母さんに
「留守中に男の子が家に入っていった」
と報告。
お母さんは家に入るなり、寝ていた酒井法子を起こしてビンタし、
「約束したのに、なんでこんなことするの!」
酒井法子は、
「それはわたしじゃないし、部屋の中に入れていない」
といって泣いた。
お母さんに手を上げられたのは、この1度だけで、このときも
「想ってくれている表れだ」
と思った。
その後、2人は度々、ケンカをし、酒井法子は怒られて腹が立つと、部屋のドアに
「入らないで」
と張り紙をして閉じこもった。
するとお母さんも
「お母さんの部屋だから入らないで」
と張り紙。
そしていつもバカバカしくなって仲直りした。
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一方、パパはあまり家にいなかった。
それまで酒井法子は、最初、出かけたいときに出かけ、たまにフラと帰ってくるパパを
「自分の人生を楽しんでいる」
「ゴーイング・マイ・ウエイな人」
そして
「正直、何をしているのかわからない」
と思っていたが、この頃になると小さいときに一緒にお風呂に入ったとき体に掘られた花をきれいだと思った記憶と十数年の人生経験により、事情がわかってきた。
すると自然と避けて過ごすようになり、パパとの間に緊張感が漂うようになった。
流行りの長いスカートをはいて遊びに出ようとしたとき
「そんなカッコウで外に出るな」
と注意されたが、無視して玄関へ。
「ちょっと待て!」
といわれ、腕をつかまれ、初めて殴られた酒井法子は、殴り返した。
そして跳ね飛ばされて冷蔵庫で顔を打ち、
「貴様、なんばしよっとか」
と怒鳴られると
「お母さん、助けて」
と風呂に入っていたお母さんに助けを求めた。
この後、ますますパパを遠ざけるようになった。
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中学3年生になると、あまりの厳しさに同級生のソフトボール部員は10人になり、酒井法子は、レフト、9番でレギュラーを獲得。
夏、顧問が「必守必打」と書いた赤いハチマキを巻いて、全国大会出場をかけて福岡県大会に出場し、決勝戦でドラマチックな逆転サヨナラ負け。
酒井法子は
「中学時代は毎日が部活で精いっぱいで、それによって生活が充実していた」
といい、ソフトボール部員との友情は大人になってもずっと続いたが、あるとき最後の決勝戦の試合の内容を
「忘れてしまった」
というと
「マジでいいようと?」
といわれた。
部活を頑張りすぎてまったく勉強をしなかった酒井法子は、

ソフトボール推薦で高校に行く
中学生になって初めて美容室を経験し、素敵だと思った美容師の専門学校に行く

という2つの進路を考えていたが、雑誌で「 ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」という記事を発見。
それは資生堂のシャンプーのイメージガールのオーディションで、優勝すればサンミュージックに所属し、ビクターからレコードデビューすると書かれてあった。
「サンミュージックといえば、憧れの松田聖子が所属する事務所。
地元福岡で九州地区予選があると知り、酒井法子は応募。
親に内緒にしていたが、書類選考を通過し、地区予選への出場案内が送られてきて、オーディション当日、学校が終わった後、家で着替えて出ていくとき、お母さんに見つかり、
「どこ行くの?」
と聞かれ、すべて打ち明けると
「夕飯までに帰っといで」
といわれた。

W0251 志村香「曇り、のち晴れ」

家から自転車で10分ほど走って九州朝日放送へ。
オーディション会場は、ピアノが置かれた小ホールで、志村香の「曇り、のち晴れ」を歌ったが、人前で歌うのは生まれて初めてで緊張し、うまく歌えず、他にうまい人が何人もいたため、
(これはダメだな)
とあきらめていたが、全国大会進出が決定。
保護者の承諾が必要ということで、ビクターの幹部と放送局のスタッフと一緒に自宅へ帰り、
「歌は最下位だけど光るものがあった」
と説明を受けたお母さんは、
「東京に行く口実ができた」
と喜んだ。
1985年10月26日、東京都中野区にある中野サンプラザでオーディションの全国大会が開かれ、北海道から九州まで各地区の代表が12人集まり、その模様は、テレビ中継されたが、幸か不幸か福岡では放送されなかった。
司会進行は、コント赤信号と桑田靖子。
酒井法子は、前イメージガールの早見優を間近でみて
「なんてかわいいひとなんだ」
と見惚れてしまった。
審査は、質疑応答、水着、歌、特技で、特技は菊池桃子のモノマネをする予定だったが、他の女の子が先にやることがわかり、急遽「落語」に変更。
関東のお母さんの家で聞いた落語テープを思い出し、羽織を着て 座布団をに座り「寿限無」の
「母ちゃん、痛い痛い」
というセリフを
「母ちゃん、痛か痛か」
に九州弁にした。
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しかし全国応募総数54129名、「ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」のグランプリには水谷麻里、準グランプリには岡谷章子が選ばれ、酒井法子は落選。
夜、オーディションをずっとみていたお母さんと焼き肉を食べ、翌日、一緒に原宿竹下通りにいって、飛行機の時間ギリギリまで遊んだ。
福岡に戻るとソフトボール推薦の期限が過ぎてしまっており、普通受験に向けて勉強をしなくてはならなかったが、オーディションから1週間後、東京から電話がかかってきた。
サンミュージックの相沢秀禎社長の長男でプロモート事業部長の正久は、
「頑張ってみる気あるの?」
「普段は何やってるの?」
などと何度も電話してきて、最終的に
「何も約束できないし、仕事も何も決まっていないけど、それでも東京に出てくる気はあるかい?」
とスカウト。
酒井法子は、すぐに
「はいっ」
といい、すぐに受話器をお母さんに渡した。
その後、電話と郵便で手続きが進められ、パパは、東京から送られてきた書類をみて
「事務所との契約は10年間もある。
いま14歳だから24歳まで辞められない。
これだけ長く拘束されるのは大変だぞ。
辞めたくなっても辞められんぞ。
それでもええのか」
「最高じゃん。
長く雇ってもらえるなんて、むしろありがたい。
絶対やりたい」

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サンミュージックと契約を結んで1ヵ月も経たないうちに最初の仕事(テレビドラマ出演)が決まり、中学卒業を待たずに12月8日に上京。
高校卒業までは社長宅に下宿させるのが事務所の方針だったが、3つの下宿部屋が埋まっていたため、酒井法子は、社長宅から徒歩で3分のアパートの2DKの部屋で社長宅のお手伝いさんと2人暮らしすることになった。
食事は社長宅にいって6人掛けのテーブルに社長夫婦や先輩タレントと並んで座り、お手伝いさんがつくった大皿のおかず、ご飯、みそ汁を食べた。
夕食後はお風呂に入り、お手伝いさんは仕事があるために残り、1人で賑やかな社長宅を出てトボトボとアパートへ戻り、朝起きると、社長宅にいき、シャワーを浴び、食事をしてからバスに乗って中学校に通った。
最初の仕事は、渡辺徹&明石家さんま主演の人情コメディーテレビドラマ「春風一番!」
梅宮辰夫、菅井きん、松原智恵子、大場久美子、松本伊代、大西結花らとも共演して感動。
渡辺徹に
「下手でもいいからお腹の底から声を出して」
と教えてもらった人生初のセリフは
「トイレ、トイレ」
ドラマは1986年1月11日~3月29日まで全12話放送され、学校に通いながらの撮影に現場でうたた寝をしてしまい、叩き起こされたり、芝居経験ゼロの酒井法子は、何度もやり直しとダメ出しをもらい、何度も逃げ出したい気持ちになった。
春になると先輩タレントが高校を卒業し、社長宅の6畳の部屋に引っ越し。
堀越高校に入学し、通勤ラッシュの満員電車を初体験。
背の低い酒井法子は人と人の間に挟まれて知らない人の背中をみながら息をして、
「東京で生きるのは大変だ」
と思った。
堀越高校芸能コースは、仕事と勉強の両立を目指し、仕事があるときは早退や欠席を認める一方、教師が放課後、居残り授業を行うこともあった。
テストは普通に行われるため、酒井法子は徹夜で勉強したこともあった。
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サンミュージックの事務所は、5階が1軍のアイドルやタレント、4階は2軍となっていた。
4階所属の酒井法子は、5階を目指し、学校が終わった後、週数回、サンミュージックの事務所で、芝居、歌、踊りのレッスンを受け、家に帰ると縄跳びをして、腹筋と背筋の筋力トレーニングをして、風呂では何曲かメドレーを歌った。
「アイドルという夢が叶いかけている。
そう思うだけで気持ちがいっぱいになった。
どうしたらデビューさせてもらえるか、どうしたらもっと魅力的になれるか、そのことばかり必死に考えていた」
サンミュージックはデビューに向けて準備を進め、酒井法子は芸名を持つことに憧れていたが、
「親がつけた名前が1番強い」
と本名でいくことが決定。
中学校のソフトボール時代、
「うれピー」
「たのピー」
など
「ピー」
をつけて話すことが流行り、それからもずっと話していたため、ニックネームは
「のりピー」
になった。
酒井法子は、地味な本名を名乗ることも、のりピーというニックネームも、ずっと憧れていたアイドル、松田聖子のイメージから
「かけ離れている」
と思った。
「アイドルの王道とは違う変化球を1つ1つ投げ込んでいくことで存在感を出す」
というのがサンミュージックの戦略で、正統派のアイドルが歌や容姿など直球で勝負するのに対し、酒井法子は変化球を投げることを求められ、斬新で突拍子のないアイデアを実践していった。
一方、福岡の両親は、山梨県のお母さんの実家の近くに引っ越し。
パパは、酒井法子の仕事に影響を与えないように稼業を引退し、お母さんの親戚の商売を手伝った。
1986年11月、映像ソフト「YUPPIE」が発売。
エイリアンハンターが怪獣をやっつけるという特撮ものだったが、何か異色で前例のない方法で酒井法子の売り出しを模索していてサンミュージックは、世界初のVHD(日本ビクターが開発したレコード盤形状のビデオディスク規格)で発売。
1987年2月5日、歌詞に「ピー」「ピー」を多用した、
「男のコになりたい」
でレコードデビュー。
9日後、16歳の誕生日に後楽園ホールでファンの集いを開催。
普段、ボクシングやプロレスが行われる会場で、スタッフに騎馬戦のように担がれて入場。
白いミニドレス姿でリングに上がり、デビュー曲を歌った。
「ファンなんて多くいないだろうと思っていたのに、会場がいっぱいになるほど人があふれていて、親衛隊のような人たちにも初めて会った」
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