昭和中期のヒットメーカー「克美しげる」をご存知ですか?
皆さんは「克美しげる」という歌手をご存知でしょうか?50年代から60年代にかけて、数々のヒット曲を世に送り出した歌手なのですが、1976年に「殺人事件」を起こし逮捕、事件によりそれまでの芸能活動による功績が封印されることとなった人物です。この記事では、ヒットメーカーから殺人犯へと転落し、数奇な人生を歩むこととなった克美しげるを特集したいと思います。
50年代より音楽活動を始める。
克美しげるは1937年12月25日、宮崎県宮崎市に生まれました。高校在学中の50年代半ばより音楽活動を行い、その後「黒い花びら」で有名な歌手・水原弘と大阪で出会い、それをきっかけとして芸能界入りすることとなります。
1962年、デビューシングルがいきなり大ヒット!
水原と出会った後もバンドボーイとして着々と力を付けていった克美。1960年にはNHK(大阪)が主催したオーディションに合格し、「克美しげる」を名乗り始めます。そして1962年に東芝からレコードデビュー。このレコードはジョン・レイトン「霧の中のジョニー」に日本語の歌詞を付けたカバーであり、いきなり40万枚のヒットとなりました。
1963年、「エイトマン」の主題歌を歌う。
1962年から1963年にかけて10枚を超えるシングルを発表するなど、当時のロカビリー・ブームを追い風にヒットを連発した克美しげる。1963年にはテレビアニメ「エイトマン」の主題歌を担当し、克美の名は当時の子供たちの間でも知られるようになりました。
歌謡曲路線に転向し、紅白出場も果たす!!
克美の快進撃はさらに続きます。1964年には歌謡曲路線のシングル「さすらい」を発表、60万枚を売り上げる大ヒットを記録し、このヒットで1965年と1966年の「NHK紅白歌合戦」に出場。当時の紅白の権威は物凄いものがありましたから、克美の歌手としての人気は当時を知らない方でも想像できるのではないでしょうか。
順風満帆の歌手人生、しかし…
60年代中盤のトップスターのひとりとして君臨した克美しげるですが、2年連続の紅白出場後は人気が下降、レコードを発表するペースも徐々に落ちていきました。そんな中、起死回生を図ろうとした克美しげるは、音楽関係者に接待を行い借金1000万円を作ってしまいます。それが転落への始まりでした。
ホステスに貢がせて借金を返済!
借金の返済に困った克美ですが、当時交際していた銀座のホステス(なお、克美は当時妻帯者でした)に金を貢がせる形で返済。この借金返済が上手くいったことで、克美はその後も借金をしてはこのホステスに貢がせて返済する、という生活を続けることとなります。