〜あの伝説のワンマッチから30年・・・運命のリマッチ!〜
2017年1月14日(土)
ついに運命の日がやってきました。あの伝説のワンマッチ興行からちょうど30年。
再び、2人が相見える舞台が訪れました。
場所は、浅草東洋館。
あの、ビートたけしがエレベーターボーイをしていた元浅草フランス座です。場所もレジェンド級。恐れ多くても尻込みはしません。なぜなら、なんと言っても藤波辰爾と木村健悟による30年ぶりでの対戦です。(今回はトークバトルですが・・・)
関東にも大寒波襲来の日にもかかわらず、寒空の中行ってきました。浅草東洋館。
ついに運命の日がやってきました。あの伝説のワンマッチ興行からちょうど30年。
再び、2人が相見える舞台が訪れました。
場所は、浅草東洋館。
あの、ビートたけしがエレベーターボーイをしていた元浅草フランス座です。場所もレジェンド級。恐れ多くても尻込みはしません。なぜなら、なんと言っても藤波辰爾と木村健悟による30年ぶりでの対戦です。(今回はトークバトルですが・・・)
関東にも大寒波襲来の日にもかかわらず、寒空の中行ってきました。浅草東洋館。
via taitonavi.jp
浅草東洋館(元浅草フランス座)への初潜入です。
藤波辰爾vs木村健悟のトークバトル会場となった浅草東洋館。
つくばエクスプレス浅草駅からは徒歩すぐ、東京メトロ銀座線浅草駅からは徒歩10分程度。
あのビートたけしが育った浅草フランス座ということもあり、2度おいしいイベントです。
入口にあるエレベータで4階の受付へと向かうとビートたけしの顔写真があります。(浅草東洋館で実際にご確認ください。)
ささっと、受付をすますと会場は既に満席状態です。チケットを買っておいて良かったと一安心です。
つくばエクスプレス浅草駅からは徒歩すぐ、東京メトロ銀座線浅草駅からは徒歩10分程度。
あのビートたけしが育った浅草フランス座ということもあり、2度おいしいイベントです。
入口にあるエレベータで4階の受付へと向かうとビートたけしの顔写真があります。(浅草東洋館で実際にご確認ください。)
ささっと、受付をすますと会場は既に満席状態です。チケットを買っておいて良かったと一安心です。
本日の主役である2人を改めてご紹介!
藤波辰爾
via www.dradition.jp
プロレスファンならずとも知っているかたは、多いはず。ニックネームは、「ドラゴン」。
1971年に日本プロレスに入門、72年のアントニオ猪木による新日本プロレス旗揚げに参加。
80年代のプロレスブーム時代に新日本プロレスエースとしてアントニオ猪木の次の世代として活躍。長州力との「名勝負数え歌」と呼ばれる熱い戦いで人気を博した。
1999年に新日本の社長を就任したが、2006年、新日本を退団。その後、紆余曲折ありながらも自身の団体であるドラディションで未だ現役続行中である。
2015年3月、アントニオ猪木に次ぐ日本人2人目のWWE殿堂入りを果たしている。
1971年に日本プロレスに入門、72年のアントニオ猪木による新日本プロレス旗揚げに参加。
80年代のプロレスブーム時代に新日本プロレスエースとしてアントニオ猪木の次の世代として活躍。長州力との「名勝負数え歌」と呼ばれる熱い戦いで人気を博した。
1999年に新日本の社長を就任したが、2006年、新日本を退団。その後、紆余曲折ありながらも自身の団体であるドラディションで未だ現役続行中である。
2015年3月、アントニオ猪木に次ぐ日本人2人目のWWE殿堂入りを果たしている。
木村健悟
via www.k-kengo.com
元宮城野部屋所属の大相撲力士で歌手でもある。現役時代のニックネームは「稲妻戦士」。
1969年に大相撲の宮城野部屋に入門し、木村山のしこ名で初土俵を踏むが、1年ほどで廃業。
1972年に日本プロレスに入門する。1972年の日本プロレス分裂後は、日本プロレスに残留するも1973年に坂口征二と共に新日本プロレスに移籍する。
1985年に藤波辰爾と組んでIWGPタッグ王座の初代王者チームとなる。
1992年には、越中詩郎らと反選手会同盟(のちの平成維新軍)を結成。2003年に現役を引退し、新日本プロレスのスカウト部長などを歴任。2006年に新日本プロレスを退社。
2011年に品川区議会議員選挙に出馬し、初当選。2017年現在、2期目を務めている。
1969年に大相撲の宮城野部屋に入門し、木村山のしこ名で初土俵を踏むが、1年ほどで廃業。
1972年に日本プロレスに入門する。1972年の日本プロレス分裂後は、日本プロレスに残留するも1973年に坂口征二と共に新日本プロレスに移籍する。
1985年に藤波辰爾と組んでIWGPタッグ王座の初代王者チームとなる。
1992年には、越中詩郎らと反選手会同盟(のちの平成維新軍)を結成。2003年に現役を引退し、新日本プロレスのスカウト部長などを歴任。2006年に新日本プロレスを退社。
2011年に品川区議会議員選挙に出馬し、初当選。2017年現在、2期目を務めている。
伝説のワンマッチを振り返ろう!
1985年にIWGPタッグ王座が設立され、アントニオ猪木&坂口征二組を破り、初代王者チームとなった藤波辰爾と木村健悟。
1986年には藤波・木村のタッグでアメリカ遠征もしており、タッグ仲は悪くないものと思われていた。しかし、1986年10月9日に開催されたINOKI闘魂LIVEの公開スパーリングでのカード変更を受けて、木村が藤波への挑戦を表明したが、時期尚早と藤波が対戦を拒否したことから抗争が激化。
11月3日に予定されていたIWGPタッグ防衛戦が流れたことから、藤波も対戦を受諾したが、藤波の負傷のため対戦が実現せず、翌1987年、新日本の新春シリーズ「ニューイヤー・ダッシュ」開幕戦(1月2日)において木村のアピールで藤波vs木村戦が組まれることとなる。
1月2日の対戦で、木村は試合前に「正々堂々と戦って勝つ」と言っていたが、レッグサポーターに「スパナ」といわれる凶器を入れた稲妻レッグ・ラリアットを敢行し、反則負けとなる。
翌1月3日の対戦では、藤波が暴走し反則負けの裁定となったが、不服とした藤波から再選の申し入れが行われ、1987年1月14日に後楽園ホールでのワンマッチ興行での決着をさせることとなった。
1986年には藤波・木村のタッグでアメリカ遠征もしており、タッグ仲は悪くないものと思われていた。しかし、1986年10月9日に開催されたINOKI闘魂LIVEの公開スパーリングでのカード変更を受けて、木村が藤波への挑戦を表明したが、時期尚早と藤波が対戦を拒否したことから抗争が激化。
11月3日に予定されていたIWGPタッグ防衛戦が流れたことから、藤波も対戦を受諾したが、藤波の負傷のため対戦が実現せず、翌1987年、新日本の新春シリーズ「ニューイヤー・ダッシュ」開幕戦(1月2日)において木村のアピールで藤波vs木村戦が組まれることとなる。
1月2日の対戦で、木村は試合前に「正々堂々と戦って勝つ」と言っていたが、レッグサポーターに「スパナ」といわれる凶器を入れた稲妻レッグ・ラリアットを敢行し、反則負けとなる。
翌1月3日の対戦では、藤波が暴走し反則負けの裁定となったが、不服とした藤波から再選の申し入れが行われ、1987年1月14日に後楽園ホールでのワンマッチ興行での決着をさせることとなった。
藤波vs木村 プレミアムトークバトル 開始のゴング!!
60分1本勝負となった「藤波辰爾vs木村健悟」トークバトルの試合開始ゴングが会場に響きます!
レフェリーは藤波辰爾のモノマネでもお馴染み、熱狂的なプロレスファンでもある「ユリオカ超特Q」さん。
ゴングと同時に対戦する2人をリングではなく、壇上に招き入れます。
レフェリーは藤波辰爾のモノマネでもお馴染み、熱狂的なプロレスファンでもある「ユリオカ超特Q」さん。
ゴングと同時に対戦する2人をリングではなく、壇上に招き入れます。