寺尾常史(てらお つねふみ)
1963年2月2日生まれ。
東京都墨田区生まれ。鹿児島県姶良市(旧:姶良郡加治木町)出身。
身長185cm、体重116kg。最高位は東関脇。
角界での愛称は「アビ」。井筒部屋に外国人の見学者がやってきた際、"a baby"と言ったところ、兄たちが「アビ」と聞き違え、そのまま愛称として定着した。
東京都墨田区生まれ。鹿児島県姶良市(旧:姶良郡加治木町)出身。
身長185cm、体重116kg。最高位は東関脇。
角界での愛称は「アビ」。井筒部屋に外国人の見学者がやってきた際、"a baby"と言ったところ、兄たちが「アビ」と聞き違え、そのまま愛称として定着した。
via www.terao.info
もろ差し名人として鳴らした元関脇鶴ヶ嶺を父に持つ。また、母は25代横綱2代西ノ海の孫娘であった。
長兄は元十両鶴嶺山、次兄は元関脇逆鉾という力士一家に生まれた。井筒3兄弟と言われた。
父・鶴ヶ嶺は厳格な人間であり、その影響で小さいころから父に対しては敬語を使っていたという。
長兄は元十両鶴嶺山、次兄は元関脇逆鉾という力士一家に生まれた。井筒3兄弟と言われた。
父・鶴ヶ嶺は厳格な人間であり、その影響で小さいころから父に対しては敬語を使っていたという。
via www.terao.info
角界入りの裏に亡くなった母の愛情
安田学園高校入学後に相撲を始める。厳しい稽古を乗り越えて試合で勝つことの爽快感から相撲にのめりこむようになっていく。2年生時点では角界入りを志すようになっていたが、長兄が次兄の入門の際に強硬に反対したことから角界入りへの意思をなかなか伝えられないでいた。
しかし、1979年5月場所の千秋楽の日、癌で闘病中であった最愛の母を見舞った後長兄に突然「お前、学校やめて相撲取りになったらどうだ?」と声を掛けられた。
その後母の通夜の晩に父親に入門の意思を伝え、そのまま高校を中退して兄達を追うようにして角界入りする(寺尾は後年インタビューで「あのお兄ちゃんの言葉は、おふくろの置きみやげだったと思ってるんですよ。きっと俺の気持ちを判っていて、相撲取りにならせてくれたんだな、って。」と往時を振り返っている。)。
入門後は寺尾節男を名乗った。これは母(福薗節子)の旧姓・寺尾から取ったものである。
しかし、1979年5月場所の千秋楽の日、癌で闘病中であった最愛の母を見舞った後長兄に突然「お前、学校やめて相撲取りになったらどうだ?」と声を掛けられた。
その後母の通夜の晩に父親に入門の意思を伝え、そのまま高校を中退して兄達を追うようにして角界入りする(寺尾は後年インタビューで「あのお兄ちゃんの言葉は、おふくろの置きみやげだったと思ってるんですよ。きっと俺の気持ちを判っていて、相撲取りにならせてくれたんだな、って。」と往時を振り返っている。)。
入門後は寺尾節男を名乗った。これは母(福薗節子)の旧姓・寺尾から取ったものである。
体重を増やすのにひと苦労した
初土俵の時に85kgしかなかった体重を100kgまで増やすために大変な努力をしたという。
横になると口から食べたものが出る程食べ、夜も食べ物が胃から腸に下りるまで壁に寄りかかり、横になれるのは明け方から数時間程度という生活を約5年続け、100kgの大台に乗ったのは1984年(昭和59年)9月場所のことである。
相撲の取り口と連続出場記録
現役時代はソップ体型(相撲用語で筋肉質・比較的痩せ型の力士のこと)だった寺尾。
若い頃は回転の速い上突っ張りといなしで勝負しており、その敏捷な動きから海外公演で「タイフーン」の通称がついたほどだった。また右を差すこともあり、下手投げは強かった。
晩年は突っ張りの後、父・兄が得意としていた両差しの相撲を取るようになった。
1997年3月場所で骨折し、初土俵以来続いた連続出場記録が1359で途切れるが、39歳まで現役を続け、鉄人と呼ばれた。
若い頃は回転の速い上突っ張りといなしで勝負しており、その敏捷な動きから海外公演で「タイフーン」の通称がついたほどだった。また右を差すこともあり、下手投げは強かった。
晩年は突っ張りの後、父・兄が得意としていた両差しの相撲を取るようになった。
1997年3月場所で骨折し、初土俵以来続いた連続出場記録が1359で途切れるが、39歳まで現役を続け、鉄人と呼ばれた。
18歳の貴花田に敗れ、悔しがった寺尾
1991年3月場所、18歳の貴花田に敗れ、さがりを叩きつけるなど悔しさを露にした。
引退直後の会見で、「今まで一番悔しかった取組」としてこの一番を挙げた。それでも寺尾は引退後に「あの悔しさがあったから長く相撲が取れた」と語っている。
後の2010年に大相撲中継にゲスト出演した際に、この一番について「悔しい気持ちはわかるけど、あれ(下がりを叩きつける)はいけませんね(笑)。もし、弟子が同じようなことをしたら即刻注意しますね(苦笑)。」と語っていた。
貴花田 × 寺尾/ 1991.03
via www.youtube.com
貴花田に対して対抗心をむき出しにする寺尾。上記の取組後は相撲協会に、寺尾の態度に対して苦情が殺到した。当の寺尾自身はあまりの悔しさに食事ものどを通らなかったそう。
本人は「高3(18歳)には負けたくない」と取組に臨んだと後年語っている。
また、同じく角界のサラブレッドであり、兄弟力士として人気があったことも影響しているのかも知れない。
以降、対戦成績では大差をつけられるが、「1勝14敗でもいいから貴乃花に勝ちたいと思っていた」という寺尾。満身創痍の身体を熱く燃え続けさせたのは打倒・貴花田(貴乃花)であることは間違いないだろう。
1995年の3月場所に横綱・貴乃花から初の供給となる金星を獲得している。
本人は「高3(18歳)には負けたくない」と取組に臨んだと後年語っている。
また、同じく角界のサラブレッドであり、兄弟力士として人気があったことも影響しているのかも知れない。
以降、対戦成績では大差をつけられるが、「1勝14敗でもいいから貴乃花に勝ちたいと思っていた」という寺尾。満身創痍の身体を熱く燃え続けさせたのは打倒・貴花田(貴乃花)であることは間違いないだろう。
1995年の3月場所に横綱・貴乃花から初の供給となる金星を獲得している。
【名勝負】平成3年 夏場所 貴花田vs寺尾
via www.youtube.com
via www.geocities.jp