ライブのための曲
オフ・コースが、初めてアルバムセールスチャートで1位を獲得したアルバムが『We Are』です。その中の1曲がライブで重要な役割をしたようです。
「「一億の夜を越えて」は、アルバムの中でというより、当時のオフコースのライブの中盤、お客を一気に盛り上げる、ライブには欠かせない重要な役割を持つようになりました」。
Off Course 「一億の夜を越えて〜のがすなチャンスを」 - YouTube
ライブ映像です。
via youtu.be
どのアーティストにも、ライブで盛り上がる曲ってありますよね。ファンは曲が流れると、待ってましたぁと言わんばかりにテンションを上げます。
時代ごとに様々な色をみせる!!
『ジ・オフコース』 左から、小田さん、ウッドベースを弾く鈴木さん、地主さん。
フォーク部門2位をとった、都会、本格派ヴォーカル・グループ。
「ワン・ボーイ」のような難しい曲でも、聴き手を充分感動させるだけの実力を持っている。
THE OFF? COURSEとはちょっと変わっているが、”?”の持つ意味は「もちろん」とか「バッチリ」という意味に疑問を投げかけ、「調子はずれ」に近い内容を示すのだそうだ。
「ワン・ボーイ」のような難しい曲でも、聴き手を充分感動させるだけの実力を持っている。
THE OFF? COURSEとはちょっと変わっているが、”?”の持つ意味は「もちろん」とか「バッチリ」という意味に疑問を投げかけ、「調子はずれ」に近い内容を示すのだそうだ。
via yaplog.jp
オフコースは、1969年に結成し1989年に解散するまでの20年間邦楽シーンで活躍したバンドです。
最初は小田和正、鈴木康博、地主道夫の3人が聖光学院高校時代にフォーク・グループを結成したのがはじまりです。
この時の名称は「ジ・オフ・コース」でした。
1969年に「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場し、惜しくも第2位(第1位は「赤い鳥」でした)。
このコンテストで1位を取ってジ・オフ・コースをやめようと思っていた小田と鈴木は、この結果に納得いかずバンドを続けることに決めます。
1970年4月5日、東芝音楽工業からシングル「群衆の中で」でデビュー(ただしこの曲はオフコースの自作ではありません)。
やがて地主が脱退し、小田と鈴木の2人になったグループは「オフ・コース」と改名。
「ジ・オフ・コース」時代は、主にレコード会社から提供された他人の曲を歌っていて、オリジナル性はあまり感じられません。また、本格デビュー前のため知名度も低いです。
しかし、小田と鈴木で活動した2人時代には、フォークとアメリカン・ポップスを混ぜた独自のスタイルを既に確立しています。これには、彼らが聴き親しんだカーペンターズやピーター・ポール&マリーなどの影響があると思われます。アコースティック・ギター中心のあっさりとしたサウンドで、美しいコーラスワークが魅力です。当時はヒットしなかったものの、「僕の贈りもの」「眠れぬ夜」「秋の気配」など今「名曲」と認知されている曲がいっぱいあります。
via www.geocities.jp
松尾・清水・大間の加わった5人時代になると、それまでの繊細な作風にロック魂が吹き込まれ、演奏もエレキ・ギターやキーボード中心のハードなものになってゆきます。ロックを知らなかった小田が「勉強になった」と述懐している程、そのインパクトは大きかったのです。『JUNKTION』『FAIRWAY』といったアルバムでは以前の作風との試行錯誤が垣間見れますが、その後はビル・シュネーをエンジニアに迎えるなど、ウェスト・コースト・サウンドを意識したようなダイナミックな音作りとミックスを確立します。
鈴木脱退後の4人時代は、松尾の影響を大きく受けロック色の強いものになっています。サウンドもがらりと変わり、'80年代後半の音楽シーンに直接的な影響を受けたシンセドラムを基調としたハードで無機質なアレンジが目に付きます。やがて、コンピュータ・プログラミングも多用するようになります。松尾・清水の曲も増え、バラエティ豊かに。この時代も、もちろん名曲がたくさん。「君が、嘘を、ついた」「緑の日々」「君住む街へ」などが挙げられます。また、全米進出をかけて英語アルバムを制作したり、スケールの大きなプロモーション・ヴィデオを手がけたり新たな試行錯誤を繰り広げる傍ら、ソロ活動もありました。この時代のことを小田は「各自が独立できるための準備期間」と振り返っていますが、いろいろな経験を経た上で解散に踏み切ったと言えるでしょう。
メンバーが変わる事で音楽が変化していき、解散後には自分たちの道を進んで行きましたね。
解散の真相
松尾さんがオフコース解散について語りました。
「解散までの10カ月間で104本のライブをやったんだけど、キツかったわ。その分、最終のライブが終わった瞬間の解放感たるや、スゴかった。ただ、その解放感がツアーが終わったからか、それともオフコースが終わるからなのか、わからないところがあったね」
「メンバーもまったく知らない“解散の真相”が世間に飛び交ってた、ハハハ。まあ、一番の理由は鈴木さんが抜けたことだね。小田さんは片腕を失って、オレらではその穴を埋められなかった。解散後、メンバーはそれぞれソロ活動を始めたけど、オレはできなかったな。オフコースではどんなミュージシャンにも負けない自信があったのに、ソロでやってくほどの自信は持てなかったんだよ」
1982年、オフ・コース結成当時からのメンバー鈴木康博は、6月に行われた日本武道館連続10日間公演終了後に、オフ・コースからの脱退を決意。翌1983年8月、アルバム『Sincerely』で、ソロアーティストとして道を歩んでいくことになります。